眠らない街から 2  
― 悠季 ― 


 富士見銀座で夕飯の材料を買い込み、徒歩十分の道のりを歩いて。我家への路地を曲ったところで、門の脇に車が停まっているのが見えた。もう辺りは薄暗くなっていてちょっと自信はないけど、見覚えのある車だ。もしや、と思って足を速めて近づくと、辿り着く前にドアが開いて、降りて来たのはやっぱり宅島くん。やあ!って感じに片手を挙げた彼に僕も手を挙げて応えて、残る距離を小走りでこなした。
「ごめん! もしかして随分待ってた?」
「いえ、三十分ってところです」
 忙しい彼にとっては、充分に長い時間だ。
「うわ〜、ごめんね。銀座まで出てたもんだからさ」
「連絡もなしに来て、こっちが勝手に待ってたんですから。それに、夕方には戻られるだろうと思ってましたし」
 僕が下げてる買い物荷物を見てニッと笑う。長ネギが飛び出しているそのレジ袋を少し持ち上げて言った。
「なんなら夕飯食べてく? 今夜はすき焼きだよ」
 短く口笛を鳴らして(やった!)って感じの顔をしたけど。
「遠慮しときます。年末の過密スケジュールでただでさえ機嫌の悪い大王様が、大魔王様になると手に負えませんので」
 その、結構本気らしいジョークに笑った。
「えっと、それで、何か急ぎの用だった?」
 公演の時には必ず付き人役になる宅島くんは、明日になれば圭に会えるし、たぶん僕とも会う。
「まあ緊急じゃないですが。コレが届いたんで早く聴きたいかな、と思って」
 車の中から取り出したのは一枚のCD。ジャケットもなくラベルも付いていないけど、中身の想像はついた。
「これって、もしかして……」
「お待ちかねの試作盤です」
「うわ〜っ、わざわざありがとう!」
 それは圭の海外公演のライブ盤で、僕でも名前を知ってるオケを振るっていうんで、ホントはツアーに付いて行って生で聴きたいぐらいだったんだけど。あいにく絶対休講になんか出来ない実技試験直前の日程で、泣く泣く諦めたんだった。
「じゃ、俺はこれで」
「あっ、せめてお茶ぐらい飲んでってよ!」
 さっさと車に乗り込んでしまった宅島くんを慌てて引き止めた。わざわざ届けてもらったのに、待たせた挙句に門前払いじゃあんまりだ。
「ほら、車、中に入れてさ。少しぐらいなら時間あるだろ?」
 家の前の道路は道幅が狭くって、路上駐車はご法度だ。
 門扉を全開にして促すと、宅島くんは「じゃ、ちょっとだけ」と巧みな運転で庭に乗り入れた。
「これ、もう聴いた?」
「いえ、まだです」
「あ、そうか。公演の時に生で聴いたんだもんな。慌てることはないか」
「て言うか、届けに来たら一緒に聴けると思ったんで」
「アハッ! なんだよ、最初っからその気だったんじゃないか。だったら変に遠慮なんかしなきゃいいのに」
「そこはまあ、一応。大王様の留守に上がり込んで、守村さんの淹れる美味しい紅茶をいただく訳ですから」
「はいはい、紅茶ね。了解」
 笑いながら、これは息抜きでもしたかったのかな、なんて思いつつ玄関のドアを開けて。
 僕に続いて「お邪魔しま〜す」とドアを潜った宅島くんが、
「鬼の居ぬ間に、な〜んてことは考えてませんので」
 と言い添えたのは、話の流れプラス、前に光一郎さんから浴びせられた『入るなバリアー』を覚えていたかららしい。ブッと噴いちゃいながら言った。
「そんなことわざわざ言わなくてもいいのに」
「じゃあ、不言実行でいいってことですね?」
 ニャッと笑いながらバカなジョークを言った代償は、今度もしっかり浴びせられちゃったらしい強力なバリヤー。僕は光一郎さんに取り成しをしなければならなかった。


 いつもはテーブルと椅子のある台所に通すんだけど、それじゃCDが聴けない。宅島くんをピアノ室に送り込んでから台所に行って、まずは湯を沸かしながら買って来た食材を冷蔵庫に収める。すき焼きの支度は野菜を切るぐらいのことだし、慌ててやらなくても大丈夫だろう。
 カップや紅茶缶を取り出し、何かお茶菓子がなかったかと探していたら、携帯電話の着信メロディが聞こえた。一瞬ドキッとして条件反射で自分の携帯を目探ししてしまったのは、それがサティの『ジュ・テ・ヴ』だったからだ。
 実は、僕の着信音は『ジリリリ〜ン』って感じの古風な電話機の音に設定してあるんだけど、以前圭に悪戯されたことがあってさ。僕が知らないうちに、彼からの着信だけ『ジュ・テ・ヴ』が鳴るように変えられてて、それが学生たちと一緒に学食で昼飯を食べてる時に鳴り出したもんで、ビックリするやら恥ずかしいやらでえらい目に遭ったんだ。だから(またやられたか!?)と思った訳なんだけど。
 曲はすぐに鳴り止んで、少し遅れて宅島くんの話し声が聞こえてきた。彼の携帯だったんだと判ると同時に、電話の相手にもなんとなく想像がついてしまった。
 僕はピアノ室のドアを開けっ放しで来たことを後悔しながら、なるべく台所の奥の方で紅茶を淹れる作業を続けた。話し声が漏れてくる程度で何を喋っているかまでは聞き取れないんだけど、万が一にも盗み聞きしたみたいにならないようにさ。ところが、僕の小さな努力は無駄になってしまった。
 普段、宅島くんはそんなに大声で話す方じゃない。圭のように、すごく通りのいい声って訳でもない。それが、ぼそぼそだった話し声が次第にボリュームを上げて、しかも怒気を孕んでくるのが判るんだ。耳を塞いでいようと思いつつも意識は宅島くんの声に引き寄せられ、心臓が嫌な感じに動悸を速めていく。どうやら言い争いになっているらしい相手が気になってしまうのは、宅島くんの口調が怒るほどに無表情になっていく、そんな冷ややかさを纏っていたからだ。そして、言葉まではっきり聞こえたそのひと言は、僕の背筋をヒヤッと瞬時に凍らせた。
「もういいっ! 勝手にしろよっ! 仕事中だから切るぞ!」
 物別れに終わってしまった電話は、相当に深刻な諍いのようだった。だが、少なくともプライベートの用件だと判ったからには、何も知らないフリ、聞こえなかったフリを貫くだけだ。でも、何でも顔に出てしまうらしい僕には難題かも知れない。
 湯を注いだティーポットを前にそんなことを考えていたら、周りへの注意がすっかりお留守になっていたらしい。コンコン、というノックの音にびっくりして振り返ると、台所の入り口に宅島くんが立っていた。
「あ……」
「すみません、お騒がせしました」
 ひと声発したきり何も言えずに固まってしまった僕に、宅島くんは苦笑しながらそう言った。でも、お陰で僕はますます言葉に詰まってしまった。聞こえていなかったフリをするのはあまりにわざとらしく、何も言わないのも不自然で。でも何か言えば詮索することになってしまう。
 そんな僕の窮状を察したのか、それとも細かいことに構う気力を失くしていたのか。
 宅島くんは椅子に座ると、ハァ〜っと大きな溜息を吐いて両手で顔を覆った。テーブルに両肘を突いたままゴシゴシと顔を擦っている彼の前に、黙って紅茶のカップを滑らせた。湯気と一緒に立ち昇る香気に誘われたように、宅島くんが顔を上げた。
「すみません、今日はこれをいただいたら帰ります」
「あ、うん」
 たぶんそうなるだろうとは思ってた。
「しかし……長続きする秘訣って何ですかね?」
「へ?」
「桐ノ院と守村さんって、結構長いでしょう?」
「……あー、まあ、それなりに……」
 相手はやはり彼女だったみたいだ。でも相談されたって、僕らみたいな一般的じゃないカップルが参考になるとは思えないんだけど。何と答えたものかと考えているうちに、宅島くんは続きを話し出した。
「クリスマスのディナーだのホテルだのって細かいことに拘って文句言うもんで、もう鬱陶しくって。どうせ雑誌の記事か何かに踊らされてるんだろうけど、どうして女ってああまでイベントに拘るんだか……」
 男でも拘りまくりのヤツは居るけどね、ってのは言わなかった。それよりも、相談と言うよりは愚痴を聞いて欲しいらしい宅島くんの話を、僕は腰を据えて聞くことにした。
「えっと、宅島くんが用意したクリスマスデートを、彼女が気に入らなかったわけ?」
「そもそもイブの夜は仕事でダメだって断ったことからして気に入らないんですよ」
 イブの夜は確かに第九の公演があるけど。僕らだって終わってからデートの予定だ。
「でも十時半ぐらいには終われるだろ? その後じゃダメなのかい?」
 宅島くんは立てた人差し指をチッチッチって感じで横に振って言った。
「その時間じゃまともなレストランでフルコースなんて無理でしょう? まあ六本木辺りに行けば無くはないですけど、万一こっちの仕事が長引いて待ちぼうけでもさせようもんなら最悪ですからね。かと言って、そっちに気を取られて仕事の手を抜いたら、今度は大王様の鉄拳が降ってくる」
 両手で頭を覆ってふざけてみせたけど、宅島くんが自分の仕事にプライドを持ってて責任感も強いことは、僕も圭もよく解っていた。僕らの仕事にはイレギュラーやアクシデントが付き物で、だからマネージャーはどんな事態にも対応できるように、いろんな意味で自由度というか柔軟性が必要になる。絶対に動かせないプライベートの予定なんてものをタイトな仕事のスケジュールの隙間に入れるのは、綱渡り的な冒険だ。イブを仕事だけに絞った宅島くんの気持ちは理解できた。
「だから、二十五日にしたんですけどね。大王様は随分前からオフ宣言してましたけど、こっちはやっぱ早々に約束するのは怖いんで。昨日予約の電話をしたら、彼女が行きたがってるようなところはとっくに埋まってて、俺が散々苦労して押さえたところには文句タラタラ!」
「ああ、今年はイブが金曜日でクリスマスが土曜日だから、出足が早くって大変だったらしいね」
「詳しいですね! 守村さんも苦労して探したクチ?」
「あは、違うよ。学生がさ、授業なんかそっちのけで騒いでたから」
 そう答えながら、宅島くんの彼女はかなり年下なのかな、と思った。会ったことも詳しい話を聞いたこともないけど、なんとなくね。
「キャンセル覚悟でとにかく予約だけ入れておけば良かったんだけど、まさかそこまで拘るとは思わなくて……まあそれは、俺のミスっちゃーミスなんですが。休日も勤務時間も不規則で突発もありの仕事だってことは判ってて付き合い始めたし、今までそんな我侭言われたことなかったもんだから」
 宅島くんは肩を落として重苦しい溜息を吐いた。
 もしかしたら彼女はずっと我慢してたのかも知れないな、と僕は思った。それから、表面的にはミーハーで我侭なお嬢さんとそれに振り回されてる若者って図式の、今どきのカップル風なこのふたりが、実はどちらもかなり本気なんじゃないか、と思ったり。彼女の拘りは、常に仕事最優先の宅島くんに、特別な日ぐらいはお互いのことを一番に思って過ごしたい、と訴えている心の叫びに思えるし、宅島くんもたぶんそれが判っているから悩んでいるんだろう。
「あー、面倒臭い。マジでやめたくなってきた」
 ガシガシと頭を掻きながら独り言のように呟いた宅島くんを、まあまあ、と宥めて。彼よりもずっと恋愛の経験値は低いだろう僕には何のアドバイスも出来ないけれど、背中を押してあげるぐらいは出来るな、と思った。
「あのさ、全部電話で済ませたんなら、会って顔見て話した方が良くない? 明日のリハは三時からだろ? 昼頃までは時間あるじゃないか」
「いや〜、もういいですよ」
「まあそう言わずに。あんな曲を着信メロディにしてるくせにさ」
 からかってやったら、宅島くんは苦虫を噛み潰したみたいな顔で言った。
「あれは彼女にやられたんです」
「ぐ……っ!」
「なんですか?」
「あ、や、なんでもないから……っ」
 「きみの発想はミーハーなお嬢さんと同じレベルだぜ」と言ってやった時の圭の顔を想像して、僕は内心で笑い悶えた。


「つまんない愚痴を聞かせて、すんませんでした」
 車のところまで見送りに出た僕に、宅島くんは照れ臭そうに頭を下げた。
「ううん、いつもは世話になるばっかりだからさ、聞き役でも務められたんなら嬉しいよ」
 そう返しながら、僕は本当に嬉しいと思っていた。圭とはタイプも違うし彼ほど強固でもないけど、宅島くんも他人に内心を読ませないタイプだからさ。人当たりのいい外面ではぐらかして煙に巻くって感じ? だからこんな風に本音を見せてもらえると、近しい人間として信頼されてる感じがね。
「やー、なんか頼らせてもらいました」
「あは、いまいち頼り甲斐はなさそうだけどね。でも、僕に出来る協力はするから。明日もさ、遅れそうになったら電話一本くれれば、付き人役を引き受けるぜ?」
「それ一石三鳥ですよ! 俺は楽できるし、大王様はご機嫌で、いい演奏して聴衆も満足!」
 
 ふたりして声をあげて笑ったそれは、どっちも冗談で言ってたんだけど。
 宵闇に溶け込んでいくテールランプを見送って、門扉を閉めて玄関に向かう間に、僕の頭の中では(いいアイディアだ!)って思いに育っていた。
 イブの公演の付き人役を、僕がやらせてもらったらどうだろう?
 圭へのクリスマスプレゼントになるし、宅島くんへのプレゼントにもなる。
 でもこれは遊び半分の思いつきでやっちゃいけない仕事の話だから、サプライズは無理だ。圭にも宅島くんにも話して、きちんと了解をもらわなきゃ。
 どっちが先だ?と考えて、やはり圭が先だな、と結論した。
 すき焼きの支度をしながら圭の帰りを待つ間、僕は頭の中で彼に打ち明ける為の言葉の数々を懸命に考えていた。



 
  つづく



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