眠らない街から 3  
― 圭 ― 


 明日から始まる定期公演の練習を終えて、家に帰り着いたのは七時半を少し回った頃だった。
 玄関を開けたところで漏れ聞こえてくるその音に気づき、(おや?)と思った僕は光一郎氏に帰宅の挨拶をした後、暫しその場で待ってみた。常ならばこのタイミングで悠季が出迎えてくれるのだが、予想通り、彼は姿を見せない。「ただ今帰りました」と奥に向かって声を張ってみても、結果はやはり同じだった。
 今頃は笑顔の彼を抱きしめて、半日ぶりの再会を喜ぶ熱い口づけを交わしている筈だがと思うと、その温もりが腕の中に無いのは寂しい限りだが。
(この場合は、喜ぶべきなのでしょうね)
 玄関を上がって左手の、オークの扉。ピアノ室のドアを開いた途端に溢れ出てきたのは僕の演奏で、悠季は目を閉じてゆったりとソファに身体を預け、僕の音に抱かれていた。
 そっと歩み寄っても気づかないその顔は、まるで幸福な夢でも見ているかのように仄かな笑みを浮かべ、胸と腹が寝息の如く密やかな呼吸に緩く上下する。だが眠ってはいない証拠に、膝の上で指先が小さくリズムを刻んでいる。
「悠季」
 驚かせないように静かに呼びかけ、そっと包み込むようにその手に触れると、悠季はビクッと身体を震わせて目を開けた。ぼんやりと見上げ、僕を認めて目を見開いた。
「圭? わっ、ごめん! ぜんぜん気づかなくて」
「いえ、ただ今帰りました」
「うん、おかえり。きみを待ってる間にちょっとだけ、って思ったんだけど、気持ちよくて」
「何よりの賛辞ですが、そろそろこちらの世界に戻ってきてください」
 未だ蕩けたような表情を浮かべている頬を掌で包み、口づける。僕の音楽は至福の余韻で彼の中を満たしているらしく、口づけに応えて絡み付いてくる舌はねっとりと甘く蠱惑的で。その先を我慢する為には、理性を総動員させねばならなかった。


「宅島くんがね、夕方、わざわざ届けてくれたんだよ」
 悠季は僕の杯に熱燗の酒を注いでくれながら言った。
 差し向かいの食卓には甘く温かい湯気が満ちている。時刻は既に九時過ぎで、夕食には少しばかり遅い時間になってしまった。すき焼きに熱燗と聞いて先にふたりで風呂を済ませた結果なのだが、それにしても随分と遅くなってしまった理由は押して知るべし、といったところである。
「あのツアーに同行出来なくて散々に悔しがっていたきみのことを覚えていたのでしょう」
 注いでもらった酒をひと息に干して、今度は僕が悠季の杯に注いでやる。
 小さな器で酒を酌み交わす行為は、ひと度ごとに心を通わせ合い、絆が深まっていくような感覚がいい。
 悠季は注意深く口元に運び、一口含んでから杯を置いた。
「うん、だと思う。明日になればきみにも僕にも会えるのに、早く聴きたいだろうからって。忙しいんだろうに悪かったなぁ」
「たまたま時間が空いたか、何かついででもあったのでしょう。そうした事で無理を押す男ではありませんから、気にしなくていいです」
「あは、僕が淹れる紅茶が飲みたかった、なんて冗談言ってたけどね」
 やれやれ、と僕は密かに嘆息した。どこまでが冗談なのか怪しいものだ。
 宅島の嗜好は間違いなくストレートで、戯れにも悠季に手出しする気は無いと判っている。だが、悠季が放つ癒しのオーラに惹かれているのは確かだ。
 湯上がりの上気した頬に酒精がもたらした紅を刷き加えた艶やかな微笑みを、僕はそんなことを思いながら眺めていたのだが。
「それでね、ちょっと思いついたことがあって、きみに相談っていうかお願いがあるんだけど」
 唐突にも思える前置きをして、悠季は箸を置き、心持ち背筋を伸ばした。
「ティータイムの度に宅島を同席させたい、という提案なら却下ですよ?」
「ぶっ! いったいどこからそういうことを思いつくんだい? えっとね、きみへのクリスマスプレゼントのことなんだ」
 僕の混ぜっ返しに悠季は呆れ顔で笑い、それから再び顔つきを改めて、僕が想像もしていなかった相談とやらを口にした。
「二十四日の第九公演の時にね、宅島くんの代わりに、僕に一日付き人をやらせて欲しいんだけど」
「……それを僕へのプレゼントにしたいと?」
「うん、こういうのは先に言っちゃうもんじゃないんだろうけど、仕事のことだからさ。きちんときみの了解をもらってから、と思ってね」
「もしや、宅島に何か頼まれましたか?」
 CDは単なる口実で、それが目的で来たのではないかと、つい勘ぐってしまったのだ。
「えっ!? いや、違うよ! そうじゃない。夕方、宅島くんと雑談してる時にふと思いついたんだ」
 悠季は僕の疑惑をそう否定し、少し荒げてしまった声のトーンを落として続けた。
「あのさ、僕はその日、昼間のうちにふたり分の荷物を持ってチェックインして、適当な時間を見計らってホテルからホールへ出かけて行くつもりだったんだ。でも、どうせだったら、ずっときみの傍にくっ付いてるのはどうかな、と思ってね。舞台の袖からでも演奏は聴けるし、別の日に聴きなおしてもいい。二泊三日の間、きみと一緒に過ごすって主旨にも合ってると思うんだけど、どうかな? あ、もちろん、僕が付き人では心許ないなら、この話は無かったことにするけど」
「心許ないなどと思うはずがないでしょう? 宅島に声を掛ける以前のことですが、僕は元々付き人を持つならきみ以外にいない、と言ったぐらいなのですから」
「あ……うん、そうだった」
「一緒に家を出て楽屋入りも一緒、リハーサル前に頑張れのキスももらえますね?」
「あはっ、まあ、ね」
「本番前に気持ちが昂ってきみが欲しくなっても悶々としなくて済む」
「そ、それは却下! 絶対に却下だからなっ!?」
「おや、どうしてです?」
「あんな恥ずかしくて怖い思いは、一度で沢山だよっ!」
 随分と昔のことを、悠季も覚えていたらしい。今思うと、恥ずかしがり屋のきみがよくぞ承知してくれたものだと思うが、あの時は事情が事情で、精神状態も普通ではなかったのだろう。
「では、本番が終わるまでは我慢することにしましょう」
「ホテルの部屋に戻るまで、に訂正してくれ」
「判りました。ではイブの夜は予約、ということで」
「ただし、きみが眠っちゃわなければね」
 僕らの間に陣取っている、空になったすき焼き鍋を横に避けて。僕は身を乗り出して、悠季のいつもより赤味を増した唇に約束のキスを贈った。
「そういう訳で僕自身は大歓迎ですが、宅島の立場を考えるとそう公言するのは憚られます。彼はあれで自分の仕事にかなりのプライドを持っていますからね」
「うん、判ってる。宅島くんの仕事を軽々しく考えてる訳じゃないってちゃんと伝わるように話すから。他にプレゼントのアイディアを思い付けなかった僕へのプレゼントだと思って、一日だけ大目に見てくれるように頼むつもりなんだ」
「相手は信頼のおけるきみですし、面倒な僕の世話から開放されると喜ぶかも知れませんね。それに、宅島へのプレゼントにもなる」
「え?」
「恋人の居る男が、クリスマスイブに休みをもらって喜ばない筈はないでしょう?」
「あ、あは、そ、そうだよね」
 悠季のぎこちない笑いが些か気にはなったが、深く追求する気持ちを僕は放棄した。仮に悠季が何かを企てていたり、あるいは誰かの企みの片棒を担いでいたとしても、僕は彼に全幅の信頼を置いている。僕の庇護者気取りの心配も詮索も、もう悠季には無用なのだ。
「さて、そろそろ片付けて二階へ行きましょう」
「あー、すっかり遅くなっちゃったな。早く寝ないと。明日は公演なのに、ごめんね」
「朝はゆっくりですから、心配要りませんよ」
 ふたりで片づけを済ませてからベッドに入ったが、僕はすぐに眠れるような状態ではなく、悠季の肌に誘いの手を伸ばした。いつもよりも僅かに体温の高い身体は柔らかく僕に絡みつき、熱く掻き抱いて幾度となく僕の想いを受け止めてくれて……。
 甘く気だるく満たされた心地に浸りながら眠りに就いた。



 翌日。僕らは連れ立って昼頃に家を出た。
 昨日の件を宅島に頼むには、見舞い客でごった返す終演後の楽屋は不適当だから、と悠季が同行を希望したのだ。リハーサルの間にでもゆっくり話すつもりらしい。
「宅島くんがOKしてくれたら、早速付き人見習いをやってもいいしね」
 にっこり笑った顔は随分と楽しげで、僕まで浮かれ気分になってくる。ふたりでウキウキを共有していると思うと、なんとも言えず嬉しい。
 だが、僕らは更に、その喜びさえも霞んでしまうような嬉しい驚きに遭遇したのだ。
 肩を並べて玄関を出たところでだった。
「あ、待って、圭。郵便物を取り込んでおくから」
 鍵をかけようとした僕を、悠季はそう言って押し留めた。
 留学中に出来た親しい友人、あるいは海外公演の際に知り合った関係者など、僕らに届くクリスマスカードはここ数年で急増しており、この時期になると毎日のように届く。今日も何通か来ていたらしいそれらを、悠季は郵便受けの中から取り出して手早く宛名と差出人を確かめていき―――
「圭……」
 微かな震えを帯びた声に呼ばれ、僕は悠季の手元を振り返った。
 白い洋封筒の裏には、幼い鉛筆書きの文字で四人の名前。だが、書き添えられたリターンアドレスと表の宛書は、ひと目見て判る大人の筆跡だ。宛名は悠季と僕の連名になっており、僕は、そのなんとなく見覚えのある優しい女文字で書かれた自分の名前を、まるで初めて見るもののように暫し見つめてしまった。
「これは……芙美子姉上が書かれたのでしょうか」
「うん、たぶん」
 短い返事の中から、悠季の感慨が伝わってくる。
「これだけ持って出かけましょう」
 悠季は黙って頷いて、その一通をコートの内ポケットにしまった。


 駅のホームで電車を待つ間に封筒を開けて、僕らはその便りに目を通した。
 赤い可愛らしいクリスマスカードは手作りらしい微笑ましさで心を温めてくれたが、真摯な願いがこめられたたどたどしい文面の持つ威力は、それとは比べ物にならなかった。
「どうやら純一郎くんが代表して書いたようですね」
「うん、ほら見て。随分力を入れて書いたみたいだよ」
 カードの裏面が筆跡に合わせてデコボコしている箇所を、悠季が指先でなぞりながら微笑む。それが僕らの来訪を待ってくれている想いの強さだとしたら、これはもう感激するより他ないではないか。
 そして、何よりも僕らの心を解きほぐしてくれたのは、姉上の添え書きだった。
 大きさの加減が判らない子供の文字がカードをいっぱいに埋めているほんの片隅の余白に小さく、だが、はっきりと記された姉上の想い。


   
  正月が都合悪ければ、いつでも構いません。
   時間が取れた時にふたり揃って顔を見せて下さい。
   家中皆で楽しみに待っています。   芙美子
 



 僕は、この耳が聴いた音の記憶を引っ張り出して姉上の声で再生しようと試みたが、上手くいかなかった。だが、悠季の頭の中では、懐かしい温もりに満ちた姉上の声がありありと聞こえていたことだろう。それも恐らくは、慣れ親しんだ故郷の言葉に置き換えられて。
「帰りましょう」
 何の抵抗も躊躇いもなく、そう口をついて出た。
「うん、帰ろうね」
 悠季が遠くを見るように呟いた。 
 それきり僕らは言葉を交わすこともなく、ただ寄り添って車窓を流れる街並を眺めて過ごしたが、真に目を向けていたのは、それぞれの心に去来する諸々の想いだったのかも知れない。



 その日、悠季は無事に宅島との交渉を成功させたらしい。
 リハーサルの後で宅島が僕のところへやって来た。
「悠季はきみの職分を侵すつもりも軽んじるつもりもないと言っていますが、それでも不快でしたら」
「いや、不快なんて思っちゃいません」
 僕なりの釈明を、と思って先に口を開いたのだが、宅島は僕の言葉を途中で遮って続けた。
「守村さんからボスも承知の上だと聞きましたが、俺の雇い主はボスなんで、直に意向の確認をと思いまして」
 みょうなところで神経が細かいのは、昔から変わっていないらしい。
 いや、職務を完璧に遂行しようとする彼の矜持が言わせるのだろう。
「なるほど。この件に関しては僕も異存はない。僕らの我侭に付き合わせてすまないが、悠季に必要な助言等あれば頼みます」
「判りました」
「ただし、こうした事は今回限りです。悠季では、僕のマネージャーは務まりませんから」
 宅島は僕の視線を真っ直ぐに受け止めてニッと笑った。不敵なその笑顔に、僕は何故か高校時代の彼を―――あの『ツルむ』ことを活き活きと楽しんでいた宅島を思い出した。
「ラジャー」
 宅島は指二本で空を切る敬礼の真似事をしてドアに向かい、思い出したように振り返って言い添えた。
「そりゃ、寝ちまったボスを担いで運ぶのは、守村さんじゃ無理だよな」
 否定できない自分が、大いに悔しかった。


  眠らない街から ・ おわり



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