ある愛のうた 1 ― 胤充 ― |
「間もなく到着いたします」 静かに告げられた声に、胤充ははっと目を開けた。考え事をしていたつもりが、いつの間にかウトウトしていたらしい。身体を包むように受け止めてくれるシートは宛ら揺りかごで、そこに会食の席で口にしたアルコールが加われば、眠くならない方が不思議というものだろう。さほど過ごした訳でもないのに酒精が重い疲労感となって圧し掛かっている気がする肩の辺りを、首をゆっくり回して解す。二度続けて飛び出した欠伸の所為で涙目になってしまった目元を、手のひらで拭った。 「おしぼりをお使いになりますか?」 ルームミラーでこちらの様子を見ていたのだろう。運転手がすかさず訊ねてきたが、胤充はそれを断った。この後はもう自宅に帰るだけで、殊更に体裁を取り繕う必要もない。 ―――尤も、そんな風に思えるようになったのは、ここ数年のことだが。 車は既に幹線道路を外れて、住宅街の細い道を縫うように走っている。薄暗い街灯に見慣れた家並みが浮かんでは過ぎ去り、やがて重厚な門扉の前で静かに停まった。 車を降りていった運転手がインターフォンで主の帰宅を告げると、屋敷の中から走り出てきた使用人の手で重い音を立てて門扉が開かれる。車は何事もなかったかのように再び動き出し、豪壮な石造りの洋館が深い木立を従えて建つ敷地の中へ静々と進んで行った。 主の帰館を、使用人たちは広い玄関ホールに居並んで出迎える。異口同音に掛けられる「お帰りなさいませ」の声に、胤充は「うむ」と低い頷きで応えていく。彼が言葉にして挨拶を返す使用人はただひとり、彼よりも長くこの家に住む執事の伊沢にだけだ。 「お帰りなさいませ」 恭しく下げられた頭には随分と白髪が目立つようになった。だが、ぴしりと背筋の伸びた立ち姿は老いを感じさせず、慇懃な所作には一分の隙もない。彼の立ち居振る舞いには義父や妻にも通じる気品に溢れた美しさがあり、かつては羨望の眼差しを向けたこともあった。 「うむ、ただいま」 返事を返しながら、さり気なく差し出された伊沢の手にコートを委ねた。 「何かお飲み物でもお持ち致しましょうか?」 「いや、……ああ、そうだな……」 要らない、と言いかけて止めたのは、階段の途中に燦子の姿を認めたからだった。 朝夕の見送りと出迎えの際に妻が玄関先まで足を運んでいたのは、子供たちがまだ小さかった頃のことだ。彼らの成長に伴って立ち消えになっていた習慣がここ数年どういう訳か復活し、最近では珍しくない光景になっている。今夜は洋服姿の妻は、深いワイン色のロングドレスの上に、ふんわりと暖かそうな白いストールを羽織っている。胤充に視線を留めたままで、緩やかなカーブを描く階段をまるでボールホールに足を踏み入れる女王のような足取りで下りて来た。 「お帰りなさい、あなた。お疲れ様でした」 「ただいま。まだ休んでいなかったのかね?」 「ええ」 ごく簡素な返事を補うように、黒い瞳が期待を込めて胤充を見つめている。それが何を望んでいるか判らない胤充ではなかった。 傍らに控えている執事にちらりと目を遣って、先ほどの続きを口にする。 「紅茶でももらおうか。あなたも一緒にどうだね?」 「いただきますわ」 妻は嬉しげに顔を綻ばせた。「わたしの部屋に運んでくれ」と胤充が付け足した指示にも、満足そうに微笑む。自室で就寝前に楽しむナイトキャップもどきであれば、運んできた時点で伊沢を仕事から解放してやれる。胤充が見せた気遣いは燦子の望むところでもあったのだった。 胤充の自室はベッドルームと書斎兼居間の二間続きになっている。邸内には別に広い書斎も居間もあるが、そちらが家族の共用であるのに対しこちらは胤充の専用。誰に何の気兼ねもなく寛ぐことの出来る空間だ。その書斎兼居間の一角に置かれているソファーセットで、ふたりは伊沢が淹れた紅茶を手に向き合っていた。 こうした時間を持つことは、最近では割合によくあることだった。妻が何か話したそうにしていると感じて胤充は半ば奉仕の精神で先回りして場を設けるのだが、形式上は胤充の誘いに燦子が応じた形。彼が水を向けるまでは、燦子は話したくてうずうずしていても堪えていることが殆どだ。それが今夜は違っていた。伊沢が退出するのを待ちかねたように燦子は口を開いた。 「お正月のことですけれど、圭さんがお仕事なのはお話ししましたわよね?」 「ああ、……確か年越しコンサート、とか言ってたな」 もうひと月以上も前に、やはり今夜のようにして妻から聞かされた話を、胤充は記憶の底から掘り出した。大晦日の夜遅くに開演するコンサートは年を跨いで深夜に終わるというので、桐院家の慣例行事である年越しの膳に出るのは不可能だし、元旦の屠蘇の儀も難しいのではないか、と話した覚えがあった。 「ええ、終わったその足でこちらに来て泊まっていただいて、屠蘇の儀だけでもご一緒に、と思っていたのですけれど、疲れている圭さんに無理をさせますでしょう?」 「あれはどうせ行事だの儀式だのは歯牙にもかけておらんのだから、二日でも三日でも、来れる時に来させればいいんじゃないかね? 要は小夜子が居る間に顔が揃えばいいのだろう?」 次期頭取職は自分が継ぐと言い出して留学したきり、家の存在を忘れたかのように寄り付かなかった娘が、珍しいことにこの正月には帰って来るという。この機会に家族揃って団欒を、と望む妻の意気込みを知っているからこそ、胤充は楽観的な観測を口にしたのだ。だが、そう言いながらも、息子は恐らく仕事を口実に今回は顔を出さないつもりだろう、と胤充は思っていた。 理由は、今年の正月の事件だ。 その顛末を、胤充は後に燦子から聞かされて知った。息子とそのパートナーの間に小さくはない波風を立てているらしい、ということも。 鼻つまみ者の叔父が蒸し返した十年も昔の騒動が、ふたりの間にどんな嵐を巻き起こし、また無事に治まったのか否かも、具体的なことまでは聞き及んでいない。だが、燦子の様子を見ていればある程度の想像はついた。 「それも考えたのですけれど、今年のことがありますでしょう? 圭さんも悠季さんも、お正月にはこの家に近寄りたくないんじゃないかと思いますの」 胤充と同じ推測を口にして、燦子は同意を求めるように形のいい眉を顰めた。 同性の恋人と生涯添い遂げる、と宣言した息子の選択を、胤充は決して歓迎している訳ではなかった。むしろそうした波風が立ってふたりの間が危うくなったのなら、これを機会に別れて真っ当な相手とごく普通の家庭を持って欲しいとさえ思う。家を継がせることはもう諦めているが、常に逆風の中で一生を送るのだろう結婚を親の身で奨励できるものではない。だから彼らの気持ちを忖度し、円満な関係が続くように配慮してやる必要などないはずなのだ。だが、自分達ではもうどうしようも無いほどに欠けて食い違ってしまっていた家族の歯車を修復し、曲がりなりにもそれらしい関係を取り戻させてくれたのは他ならぬ息子のパートナーである守村青年であり、自分達では与えてやれなかった人間らしい幸福を息子に与えてくれているのもまた彼なのだ。 胤充は未練な自分に諦めをつけるように嘆息して言った。 「ならば正月に拘ることもなかろう」 どうせあと半年もすれば小夜子は卒業してこの家に戻ってくる。家族団欒の機会はこの先いくらでもあるはずで、今回は見送ればいい。そんなつもりで言ったのだが。 「それでしたら、わたくし、いいことを思いつきましたの!」 その言葉を待っていたとばかりに燦子は勢い込んで言った。 「ねえあなた、クリスマス・パーティーをいたしません?」 胤充は面食らっていた。パッと顔を綻ばせ身を乗り出した妻の様子にも驚いたが、彼女が何を言ったのか一瞬理解できなかったのだ。そもそも桐院家のカレンダーにはクリスマスというものは無く、世間でいくらポピュラーになろうともこの家でパーティーを開くなど考えたこともなかった。子供達の為にツリーやケーキやプレゼントを用意したことはあったが、それも彼らがほんの小さかった頃だけ。幼稚園や学校で友人達から疎外されないように、と体裁を整えたに過ぎなかった。 口に運ぼうとしたティーカップを宙に止めたままで唖然としていた胤充は、ようやく我に返って言った。 「しかし、あれはクリスマスも仕事だろう? むしろ一番大変な時じゃないのかね?」 「ええ、ですからそれも踏まえて一石二鳥のいい考えがありますの」 堪えきれない様子で妻はうふふ、と笑い、無邪気に目を輝かせながら続けた。 「今年の第九演奏会は一日増えて四日公演ですけど、二十五日だけは例年通りお休みですのよ。圭さんと悠季さんには二十四日の公演の後でこちらに戻って泊まっていただいて、二十五日に皆でクリスマスの晩餐を。二十六日もここから出かけていただけば、富士見町から行き来するよりもずっとホールに近くて身体も楽ですわ」 ね、名案でしょう?と微笑む妻の顔を、胤充は再び呆然と見つめた。 以前ほど毛嫌いしていないとは言え、あの息子がこの家に二泊三日も滞在するだろうか? しかも、この家の雰囲気を少なからず窮屈に感じているだろう守村青年が一緒なのだ。トップシーズンの貴重な休日、それもクリスマスとくれば、ふたりだけで過ごしたいと考えているに決まっている。 いや、そんなことよりも! 事細かに計画を立てているらしい妻の、このはしゃぎようは何なのだ? 三十年近くも連れ添ってきた一番身近な女性でありながら、近頃の妻は胤充の知らなかった顔ばかりを見せる。日々記録を更新しているようなものだが、中でも今夜は極め付けだ。 「あなた、どうかなさいましたの?」 「え?」 「もしや、何かご予定がおありでした? 土曜日ですからあなたもお休みだと思ったんですけれど」 心配そうに曇らせた瞳にまじまじと見つめられて、胤充は慌てて頭を振った。 一応休日ということにはなっているが、会合や懇親会など業界関係の所用で年中多忙を極める頭取職には、ごく普通の勤め人のカレンダーなど当てはまらない。そんなことはとっくに承知しているはずの妻が休日だと決め付けたがった心情を思うと、なんとも複雑だった。 「何もなかったと思うが……確かめてみよう」 電話機が置いてある書斎机に歩み寄り、だが受話器に手を伸ばしたところで横に置いてある時計が目に入った。私事絡みの用件で秘書に電話をするには躊躇われる時刻だ。 「すまないが、明朝でいいかね?」 燦子は伸び上がるようにして時計を確かめると鷹揚に頷いた。 「ええ、圭さんには明日のマチネ公演を聴きに行った時にお話ししようと思っていますの。お昼過ぎまでは家におりますわ」 「判った。それまでには返事をしよう」 燦子は満足そうにもう一度頷くと、軽やかな足取りで自室に引き揚げて行った。 つづく |
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