眠らない街から 1 ― 悠季 ― |
学生のレッスンは午前中で終わるその日、大学の帰りに銀座の楽器店まで足を伸ばしたのは、取り寄せを頼んでいた楽譜が届いたと連絡があったからだった。でも、その用事が済んだ後も街をぶらついていたのはプレゼントのアイディアが浮かばなくて困っていたから。 最寄り駅まで戻る最短ルートを外れて路地を折れ、いつもは通らない裏通りの、冬枯れた街路樹がいい感じの歩道を歩く。小さいけれど洒落た構えのブティックなんかを見つけるたびに、ウィンドウをじっくりと眺めて。十二月もそろそろ半ばに差しかかろうかという今はクリスマス商戦真っ只中で、どこの店もこぞってプレゼント好適品を並べている。ツリーや雪のモチーフなんかと一緒にきれいにディスプレイされているマフラーや手袋やタイピンなんかの小物は、流石は銀座だなって感じで洗練されているけれど、これといって心惹かれる物がない。欲しい物は何でも買えてしまうリッチマンのくせに物欲は薄くって、だけど物への拘りは人一倍っていう彼へのプレゼントはほんとに難しいんだ。圭はいつだって趣向を凝らしたプレゼントを贈ってくれるから、僕からも返さなきゃ、とは思うんだけどね。 「まあ今度のクリスマスは、あのイベント自体がお互いへのプレゼントみたいなもんだから、無しでもいいかなぁ」 そんな弱音がつい口をついて出てくる。 出会った頃から記念日だのイベントだのが大好きだった僕のパートナーは、五年経った今もやっぱり大好きで、今度のクリスマスも早々にふたりで過ごす計画を立てて僕に打診してきた。二ヶ月近くも前のことだ。 圭は仕事で遅くなるっていうんで、早々に夕飯を済ませ、ヴァイオリンを弾いて過ごした夜。 風呂あがりに台所でお茶を飲んでたら玄関の開く音がした。帰って来たなと思って迎えに出て行ったら、真っ赤なバラの花束を抱えて立っててさ。 今夜は打ち合わせだって聞いてたけど、相手が圭のファンだったんだろうかと思いながら「おかえり」って声を掛けたら、圭は「ただいま」も言わないうちから言ったんだ。 「どこか具合でも悪いのですか!?」 ギョッとしたみたいな思いっきりの心配顔でさ。 「へ? いや、別に、どこも。……ああ、もしかしてコレの所為?」 パジャマの胸元を摘んで続けた。 「ちょうど風呂から出たところだったんだ」 「ああ、そうでしたか。頬も赤いようなので、熱でもあるのかと」 圭は顰めていた眉をホッとした感じに緩めて微笑んだ。それからおもむろに手にしていた花束を差し出して言った。 「クリスマスと正月休みを、僕と一緒に過ごしていただけますか?」 言わずもがなのことを、まるでプロポーズでもするみたいに真面目くさった口調でさ。 「仕事以外の時間は、いつだって一緒に過ごしてると思うけど?」 混ぜっ返してやったけど、圭が言いたいことは解っていた。 それは、一緒に居ることを一番の目的にして過ごそうという、要するにデートのお誘いだ。 「僕はいいけど、きみこそ大丈夫かい? 第九があるからそれどころじゃないだろ?」 去年は客演指揮者が振ったM響恒例の第九を、今年はまた圭が振る。しかも例年は三回公演のところを、クリスマスを挟んで前後二日ずつの四日間だ。圭は『曜日の巡り合わせの所為でしょう。それに日本人は年末の第九が好きですからね』なんて言ってたけど、僕は圭の人気を当て込んでのことだと思った。ファンからの熱い要望なんてのも、きっとあったに違いない。 「ですから遠出は望めませんが。二十四日から二十六日までの二泊三日、いつものホテルを押さえてあります」 「じゃあ二十四日の夜公演の後にチェックインして、二十六日もホテルからホールへ出勤ってこと?」 「ええ、きみは昼間のうちにチェックインして下さっても結構ですよ。オフの二十五日はどこかに出かけてもいいですし、ホテルの部屋でのんびりしてもいい。ふたりきりで過ごすクリスマスを久しぶりに楽しみたいと思ったのですが」 確かに、それらしいイベントがやれたのは、僕らが出会った年のクリスマスぐらいだ。去年はいろいろあって、それどころじゃなかったし。 「ふふ、いいんじゃない? 二十六日は確かマチネだったろ? 家から行くよりも朝寝坊できて、きみの身体も楽だしね」 二十七日の夜公演で第九が終わっても、圭は翌日が休みなだけで、またすぐ仕事だ。客演で大晦日のジルベスター・コンサート(あの、会場でカウントダウンをする年越しコンサートだ)を振るんで、その為の練習やらゲネプロやらがあるんだ。元日の帰宅はたぶん丑三つ時で、新年の仕事始めは例年通り四日。正月休みは実質二日半って感じになるだろう。 「正月の方はどうするんだい? 僕はここで寝正月が希望なんだけど」 圭の身体の為に休養第一って考えてそう言ったんだけど。「同感です」と答えた顔は、ニヤッとスケベ笑いを浮かべていて、ひと言付け加えなければならなかった。 「こらっ! ヘンな意味じゃないぞ!?」 「ええ、判ってますよ」 と頷いた顔も、やっぱりまだニヤついてる。でも次の瞬間、圭はスッと顔つきを改めて、気取った会釈をしながら言った。 「では、ご一緒していただけますか?」 「喜んで」 と、僕も鷹揚に頷いて。 「で? なんでその話をするのに、バラの花束なわけ?」 圭はほんの少しだけ口ごもった。 「あー、少々拘ったまでのことです」 つまりは、デートに誘う演出、ってことか? ほんとに気障なカッコつけ男。だけど、それがまた似合うんだよなぁ。 その時はそんな風に軽く考えたんだけど。 圭が風呂に入っている間に台所でバラを花瓶に活けていて(高そうなバラだなぁ。全部でいくらだ?)なんて思ったら、ふと気がついた。壁のカレンダーを見て、自分の記憶を引っ張り出して確認して、去年の今日がどんな日だったかを鮮明に思い出した。 十月二十日。僕らの間に木枯らし一号が吹き荒れた日だ。 その途端、圭の拘りとは何なのか、彼が何を思ってこのイベントを計画したかが解った気がした。 穏やかに深まるはずの秋も、クリスマスも正月も、ぜんぶブリザードに呑み込まれて消えた僕ら最大の氷河期は、圭がバカみたいにでっかいバラの花束を抱えて共演話を持ち帰って来たあの夜から始まった。あの試練の日々が僕らに多くの実りと教訓を与えてくれたことは確かだけれど、手痛い傷を残したことも確かで―――傷が癒え、痛みが薄れても、この傷跡は当分消えないだろう。 たぶん圭は、やり直しの楽しい思い出作りを目論んだのだ。 もちろん時間を巻き戻すなんて不可能だし、記憶を書き換えることも出来ない。でも、新たな思い出を積み重ねることは出来る。今のままでは『散々だった』印象ばかりが強いクリスマスと正月の思い出に、『いいこともあった』と思える幸福な記憶を付け加えたいのだ。それは、この先辛い記憶が甦ってしまった時にも、随分と救いになるに違いない。圭は、その救いのひとつを作ろうとしているのだった。 あの日をなぞるようにバラの花束を抱えて帰ってきて――― ああ、だから僕のパジャマ姿を見てギョッとしたのかな? でも、今夜の花束が常識的なサイズだったのは、学習の成果ってヤツ? なんだか可笑しくなってくすくす笑っていたら、圭が風呂から出てきた。バラを活けながら笑っている僕を見て「何が可笑しいんです?」なんて澄ました顔で訊くから、余計に笑いが止まらなくてさ。 「きみが好きだなぁ、って思ってさ」 笑い涙を拭き拭き言った僕に、圭は「それは、どうも」なんてポーカーフェイスのままで答えたけど、両腕はガシッと僕を抱き捕らえていて。 僕はそのまま二階へ強制連行された。 「ああ、ダメだ。やっぱり何か用意しなきゃ……」 思わず声に出してしまって、ハッと我に返った。 いつの間にか立ち止まっていたのは花屋の前で、店の奥から怪訝な顔で僕を見ている店員さんと目が合ってしまった。慌ててその場を立ち去りながら、やっぱりプレゼントは必要だ、と思った。 あの圭が、あれだけ気合いを入れて計画したイベントだ。僕へのプレゼントはナシなんて有り得ない。でも、アイディアぐらいは拾えるかと思った街歩きでも、僕の発想貧困な頭は何も思いつかず、そうこうするうちにタイムリミットになってしまった。 明日と明後日は今月の定期公演で、今日はその為の練習に出かけている圭は、たぶんいつもの時間に帰って来る。彼の繁忙期には僕が一手に引き受けている夕食当番の仕事が待っているのだった。 つづく |
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