遠き故郷より 3   
― 八重子・芙美子 ― 


 子供たちが寝床に就くと、家の中にはようやく静けさが訪れる。慌しかった時間の流れが緩やかになったように感じるこのひとときは、大人たちが自分の為に使える貴重な時間だ。
 八重子は子供部屋を覗いてから姉の様子を見に行くことにした。
 常夜灯の小さな豆電球だけが灯る部屋は、可愛らしい寝息が時おり聞こえるだけの静けさに包まれていた。起きている時は一人前に生意気も言うようになったが、寝顔はまだまだあどけなく微笑ましい。こんな冬場でもお構い無しに蹴り飛ばしている布団をそっと丁寧に直してやる。睡眠中の寝返りは、昼間使った筋肉の疲れを解きほぐそうとするいわば無意識のストレッチなのだと聞くが、子供たちの寝相の悪さを見ていると納得させられる。音を立てないように息を詰めて襖を閉め、八重子は居間へ行った。

 姉は囲炉裏端で洗濯物をたたんでいた。
 七人家族、しかもやんちゃ盛りの子供が四人もいると、洗濯物の量も半端ではない。洗うのも大変だがたたむのも一仕事。外に干せない冬場は、その上に乾かす苦労まで付きまとう。文字通り山のような洗濯物を前に、姉は黙々と格闘していた。
 八重子も腰を下ろし、黙って手伝い始めた。姉の作業の手は緩まず、八重子に声を掛けるでもない。だが、こちらの様子を窺っているような、そこはかとない緊張感が空気の中に滲んでいる。
 ぱちっ、と炭の爆ぜる音がして、八重子は顔を上げた。まるでその瞬間を待っていたように、芙美子が口を開いた。
「あんたの差し金らろ?」
 まるで悪事を企んだかのような言い草に苦笑が漏れる。俯いたままの姉の顔はよく見えないが、怒っているというよりも、むしろ拗ねているように思える。
「これでも止めたつもりなんらろも?」
 悪戯っぽく言った八重子の言葉に、芙美子は初めて顔を上げた。手を止めて、どういうことかと瞳が訊ねてくる。
「サンタさんに直接頼みに行くって言い出したっけ。そんげことされっと困るらろ?」
 子供たちにとってのサンタクロースの片割れは、なんとも言えない表情ではぁ、と溜息を吐いた。
「……そんげに会いたいんらろか」
「冬場は退屈だっけね。ユキも桐ノ院くんも格好のオモチャらし?」
 大人たちのギクシャクした雰囲気を子供なりに感じているのだろうという自分の見解を、八重子は話さなかった。あの一件を義兄や子供たちに知られぬように気を張っている姉の心労を思うと、酷な気がしたのだ。
 八重子のおどけた物言いに少しだけ頬を緩めた芙美子が遠くを見るような目で呟く。
「今度は帰って来るんらろか……」
「連絡は?」
 芙美子は目を伏せてゆるゆるとかぶりを振った。
「まあ、忙しのは確かなんらろね。夏は大学の行事がいっぱいらて言ってたし、春先にはアメリカに演奏旅行にも行ったんらろ? 年末は音楽家の稼ぎ時て聞くし、桐ノ院くんは年中忙しみてらしさ」
「けど、今年の正月は桐ノ院くんの家に行ったんらよ」
 芙美子はそれを知った日のことを思い出していた。

 二月の初め頃だったか。悠季から、ニューヨークへの演奏旅行で一週間ほど留守をするという電話が掛かって来た。
「もしかして、電話くれて留守だと心配かけるっけ。言っとこうと思て」
 そう芙美子を気遣って悠季は連絡を寄越したのだ。あるいは十二月の演奏会の折、「また一緒においで」と許しをもらいながらそれきり連絡を寄越さなかった、その埋め合わせのつもりもあったのかも知れない。
 ニューヨーク公演のことを、悠季は意気込みを感じさせる饒舌さで語り、芙美子がぽつりぽつりと話すこちらの近況話にも、きちんと耳を傾けてくれている温かさで相づちを打った。そのことが芙美子の心を温めた。この二年ほどのわだかまりなど最初から存在しなかったような錯覚を覚え、気まずさに緊張していた心が次第に解れていくのを感じた。
 だから、何の気なしに訊ねてしまったのだ。正月はどうしていたのか、と。
 他愛ない会話の中の、何ということはない話題のはずだった。だが弟の答えは、芙美子の胸の内に、あのぽっかりと口を開けた深淵が今も存在していることを知らしめた。
 格式のある旧家だという桐ノ院の実家に招かれて年越しと元旦の行事を共にしたという事実は、悠季が先方の家族から息子の伴侶として認められ、受け入れられている証に違いなく、喜ぶべきことなのだろう。だが、聞かなければ良かった、と芙美子は思った。
 悠季は、一度は拒絶された実家に恐々帰ることよりも、温かく迎えてくれる彼の家へ帰ることを選んだのだ。
 それは人として当然の心情であり、元はと言えば芙美子が撒いた種なのに、いわく言い難い感情が湧き上がってきて、芙美子は居た堪れなかった。
 これは憤りなのか悔しさなのか、それとも寂しさなのか?
 寛容な桐ノ院の家族に嫉妬しているのか?
 それに比べてなんと臆病で狭量な自分。弟はそれに愛想を尽かして、だから帰って来ないのか?
 
「姉弟らよねぇ……」
 真っ暗な淵に呑まれかけた芙美子の耳に、嘆息する八重子の声が聞こえた。場違いにも思える暢気な口調にムッとして思わず睨んでしまった芙美子を意に介するでもなく、八重子は続ける。
「フミ姉とユキはさ、よう似とるって思ったんさ」
「わたしはあんなきかん気じゃねっけ!」
 姉の怒気を、八重子は苦笑で受け止めた。
「考えすぎるところが、らよ。周りのこととか相手の気持ちとか……気にせんでもいいところまで気にするっけ、迷路の奥にはまり込むんらろ?」
「けど、わたしは……っ」
「うん、フミ姉がユキに言ったことは必要なお灸らったと思うよ。あの子は臆病なくせに妙に大胆なところがあるっけね。けど、お仕置きはもう済んだっけ、あとはシンプルに考えればいいんさ。結婚すれば実家がふたつ出来るのは当たり前。忙して時間が取れねから、近い方だけでも顔出しとこって思うんは、普通らろ?」
「けど、あの子らは盆と正月はいっつも忙して、そーせばうちに帰って来るなんてこの先も出来ねらねっけ!」
「盆暮れに拘らねば出来るらろ? 年越しの手伝いやら盆の墓参りしねばとか思わねで、いつでも時間が取れた時においで、って言ってやればいいんさ」
 それは芙美子も思っていたことだった。「また一緒においで」と言った時も、そうした気持ちを込めて言ったつもりだった。
「慣わしみてになってるっけね。ユキもずっとそうしてきたし、はっきり言ってやらんと通じねかもね」
 あの子は頑固らし、思い込みも激しい子らから、と八重子は笑った。
 
 そう、頑固なことにかけては、姉弟の中でも群を抜いている。
 いったい誰に似たものか……あるいは末っ子ならではの我の強さと相まってのものなのか……たぶんそうなのだろう。姉妹の中では末っ子、末娘の千恵子にも似たようなところがある。奔放で気が強くて……常に長女の我慢を強いられてきた自分とは違う。そして、目の前にいるこの妹は……。
「あんたは昔っからどうしてそう飄々としてるんらろね……」
「次女だっけね」
 ぽん、と待ち構えていたように返事が返ってきた。
「シーソーの真ん中に乗っているようなもんだわ」
 八重子はいとも楽しそうに笑った。どこか自慢気に見える笑顔だった。

 たたみ終えた洗濯物の山を両腕いっぱいに抱えて、八重子は居間を出て行った。
「子供らをダシにするようでフミ姉は嫌かも知れんけろ、ちょうどいい機会じゃねっけね」
 というひと言を残して。
 雪が降り積もる音さえ聞こえてきそうな静寂の中で芙美子は暫くの間動けずにいたが、やがて立ち上がって茶箪笥の引き出しを開けた。純一郎から託されたクリスマスカードと、少し迷って住所録とペンを取り出す。隅に避けてあった卓袱台を引き寄せて、その上で封筒からカードを取り出した。
 夕食の片づけが済んだ頃、純一郎はおもむろに芙美子に近づいてきて封が開いたままの封筒を手渡し、宛先の記入だけでなく投函も頼んできた。母に依存する甘えん坊の行為は、見方を変えれば大切な手紙の命運を文字通り芙美子に託す行為で。まさか年端も行かない子供がそこまで考えているとは思わないが、芙美子はつい思い浮かべてしまったのだ。
「中を読んでもいっけね。それと、もしかして母さんが嫌だったら、出さねでもいっけ」
 そんな純一郎の心の声を。

 芙美子はペンを取り上げた。
 住所録はページを繰るまでもなく、開き癖のついたそこで開いて止まった。
 既に覚えている住所を、万が一にも間違えないように確かめながら、慎重に書き写していく。
 連名にすると決めていた宛名は、祖父の持ち家だという桐ノ院を先に書くべきだろうか? 夫婦なら迷うこともないが、夫と妻とは呼べないあのふたりの場合、どうなるのだろう?
 つい、そんなことを考えて笑ってしまったが、その笑いは苦いものではなかった。結局、カードの中に書かれた宛名に従って、悠季を先にした。  
 二つ折りになった真っ赤なカードの内側には、文面を書くために重ねられた一回り小さな白い紙。そこに鉛筆で綴られた純一郎の文字を、芙美子はゆっくりと読んだ。何度も繰り返し読んで、真摯な願いを噛みしめた。

 雪はまだ降り続いているのだろう。明日の朝には相当に積もり、ポストがあるタバコヤまでの道のりは難儀するに違いない。けれども、朝のうちに出しに行こうと思った。
 そうだ、家事は後回しにして、学校に行く子供たちと一緒に家を出よう。
 「母さん、どこに行くの?」と訊ねられたなら、これを出しに行くのだとカードを見せてやろう。

 封をして買い置きの切手を貼り投函するばかりにした封筒を、芙美子は元通り茶箪笥の引き出しにしまい、台所に向かった。そろそろ帰ってくるだろう夫の為に、熱い茶漬けぐらいは用意してやりたかった。



  遠き故郷より  おわり



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