遠き故郷より 2   
― 八重子 ― 


 保育士をしていると「早く帰れていいですね」と言われることがある。園児が帰ればこちらの仕事も終わりと思われているらしいが、とんでもない思い違いだ。例えばお遊戯を教えるには、あらかじめ曲を選んで振り付けを考える時間が必要だし、水彩画を描くなら画材を揃えておかねばならない。小さな子供相手の保育には、何をするにも事前の準備が欠かせないのだ。その他にも保育日誌の記入や保護者へのお便り作り、職員会議などデスクワークも多い。保育室を掃除するのも季節に合わせて可愛らしく飾ってやるのも保育士の仕事であり、それらの作業はすべて園児が帰った後に始まる。子供に接する時間の裏で同等かそれ以上の時間が費やされており、そこに運動会や生活発表会などの行事が加われば増える一方で、夜遅くにまで及ぶことも珍しくない。
 そうした裏方仕事を、殆どの同僚たちは園に居残って片付けていくが、八重子は持ち帰って差し支えのない手作業などは持ち帰り、なるべく早く帰宅するようにしていた。自分が遅くなれば、朝が早い姉に負担がかかる。それは是非とも避けたかったし、出来れば多少なりとも助けになりたかった。兼業農家の主婦として家を切り盛りしながら四人の子供を育てている姉の毎日は、猫の手でも差し出したくなるようなハードなものだったからだ。
 
 慣れた手つきで愛車を操って納屋に収めると、八重子は大きく膨らんだトートバッグと今日の手作業を入れた紙袋を手に母屋に向かった。そこだけ雪が除けられた通り道に沿って、既に腰の高さほどの雪壁が出来ている。正月を迎える頃には背丈ほどにもなるだろう。今も吹雪いてこそいないが結構な降りで、今夜はかなり積もりそうな気配だ。玄関の脇に立て掛けられたスコップにチラリと目を遣りながら、明朝一番の仕事は義兄を手伝っての雪かき、と頭に刻んだ。


「ただいまぁ〜」
 奥に向かって声を張り上げる。
「おかえりー!」
「おかえり、八重おばちゃん!」
 口々に叫びながら我先にと廊下を駆けて来る足音は、この一、二年で随分重い音になった。「そんげ走ると危ねって」と口癖になっていた心配も、もう滅多に口にすることはない。迎えてくれた笑顔にもう一度「ただいま」を告げてから上がり框に荷物を置き、帽子と手袋を取る。小さな両手を差し出して待ち構えていたのは桃子と桜子だ。防寒用のジャンバーは浩二が受け取って、雪を払い落としてくれる。そして、それらを一手に引き受けてコート掛けに吊るす役は、一番背が高い純一郎の担当。
 人間誰しも社会の中では立場に見合った果たすべき役割というものがあるが、家庭という小さな括りの中にもそれはある。親は親の、子供は子供の役割。子供たちの中でも、兄には兄の、妹には妹の役割。それは、まず家庭という小さなコミュニティを意識するところから始まるものだ。日々の暮らしの中でそれぞれが家族の声に耳を傾け、自分に求められているものを肌身で感じ取っていく。その過程こそが、お互いを思い遣ることのできる温かい家庭を作り上げていくのだろう。そうしたものの大切さに一生気づかない者もいれば、この甥っ子たちのように小さいながらも無意識に感じている者もいる。これも周囲に無関心ではいられない大家族ゆえ、兄妹が多いゆえの賜物なのだろうか。
 八重子は「ありがと」と笑いかけながら桃子と桜子の頭を撫でてやった。双子は面映そうにしながらもニコッと目を細める。こうしたご褒美はもう照れ臭くて堪らないらしい純一郎と浩二には、肩をポンポンと叩いてやる。頼もしさを讃えるような仕草を、兄と弟は幾分か照れの混じった得意気な顔で受け取った。

 出迎えの儀式は大抵ここまでで、普段なら子供たちは遊びの続きに戻っていく。だが、この日は少しばかり様子が違った。 
「これ、お仕事らろ? 俺、手伝ってやるっけ」
「おれも手伝ってやるさー!」
 先に立って荷物を運びながら兄たちが言えば、妹たちは八重子の両腕をしっかりと握って引っ張っていく。雪に閉じ込められる季節ならではの退屈を持て余していたのか、あるいは、何度か手伝わせたことのある『お仕事』が気に入っているのか。
「待って待って、お母さんに挨拶してから」
 そう言っているうちにも廊下の奥から芙美子が現れた。床でも磨いていたのか、手には糠袋が握られたままだ。
「ただいま。すぐ着替えて手伝うっけね」
「おかえり。こっちはいっけ、そっちお願い」
 『そっち』とは子供たちの相手のことだ。
「お勝手は?」
「うちの人は今夜は寄り合いで遅いっけね、わたしらだけらから」
 夕飯は簡単に済ませるつもりで、たぶん支度はあらかた済んでいるのだろう。
「そーせば、手伝ってもらおっかね」
 期待に満ちた眼差しで母と叔母の会話を追っていた子供たちに、八重子は笑いかけた。
 仕事は捗るし子供たちの相手も出来る、一石二鳥の名案だった。

 

 二週間後に迫ったクリスマス会は、二学期最後の大きな行事だ。集った保護者たちを前に、園児はクラスごとに歌や合奏や劇などを披露し、サンタクロースから(実は園長の扮装なのだが)クリスマスプレゼントをもらって締め括りとなる。そのプレゼントに添えるカード作りが今日の手仕事だった。
 カードの土台になる真っ赤な画用紙を二つ折りにする作業、緑の画用紙をツリーの形に切り抜く作業、そのツリーと金色の星をカードに貼り付ける作業。それらを、子供たちは各自の好みと技量とで割り振って進めている。八重子が口を出したのは作り方の説明だけで、揉めれば純一郎が仲裁し、あるいは譲ってやって、難なく収まっていく。
 金色の折り紙を星の形に切り抜きながら、八重子はそっと子供たちを観察していた。それぞれの作業と格闘する真剣な面持ちが微笑ましい。『先生』の代わりに作るからには、仕上がりもそれ相応でなければならない、と子供なりに考えているのだろう。遊びの折り紙はすぐに飽きて雑になる桃子と桜子も、最初の一枚と変わらぬ丁寧さでカードを二つ折りにしている。ふっと上げた桜子の目が眺めていた八重子の目とぶつかった。
「ねえ、おばちゃん、これサンタさんのプレゼントと一緒にあげるんらろ?」
「そうらよ」
「サンタさん、保育園に来るの? クリスマス会のときに?」
 頷きながらも「どうやってサンタさんに頼んだの?」とは訊かないで欲しい、と八重子は密かに願った。仕事柄それなりの話術は心得ているが、どうしたって胡散臭さが漂う説明になるのは否めない。
「桜子のところにも来てくれるらろか?」
 桃子と顔を見合わせ、瞳を輝かせている。杞憂だったか、と安堵したのも束の間、話は八重子の思わぬ方へ転がった。
「にいちゃん、サンタさんに会って頼んでみたらどーらろか?」
 純一郎に向かって、おずおずといった調子で浩二が言った。
 例年、子供たちは手紙に欲しい物を書いて頼んでいる。直接会って頼みたいほどのプレゼントとは何なのだろうと思いながら、八重子は出来上がったばかりのカードを一枚差し出した。
「お手伝いのお礼にあげるっけ。手紙に書いとけばサンタさんは叶えてくれるらろ?」
 桃子と桜子と純一郎にも、平等に一枚ずつ渡してやる。
 嬉しそうにカードを受け取った双子の隣で、浩二は躊躇いながらカードを開き、兄の様子を横目で窺う。純一郎は手にしたカードをじっと見つめていた。その瞳は、願ったところで叶えてはもらえない、と。サンタクロースを無条件に信じる年頃を卒業した少年の諦めを湛えているように思えた。
「何をお願いするつもりなん?」
 訊くつもりはなかった問いを、努めて明るい調子で口にしてみる。
 答えにならない答えが、純一郎から返された。
「ユキおじちゃん、今度の正月も帰って来ねんらって」
「キリン兄ちゃんも」
 しょんぼりした兄の声音に、浩二も同調するように言い添えて項垂れる。
「電話が掛かってきたんろか?」
「判らん、けど母さんが……おじちゃんはお仕事が忙しんらて」
「そっか……」
 どんな言葉も慰めにはならないように思えて、八重子はそれ以上何も言えなかった。代わりに両手を伸ばして、カードを握り締めている純一郎と浩二の手を包み込むように握った。
 長子である純一郎は、兄妹の中で一番親の目線に近いところにいる。実際、子供たちだけで行動している時は、親の代理のような意識で弟や妹たちの面倒を見ていると感じることもある。純一郎に倣うように背伸びをしている浩二の意識も、兄の補佐であり、明らかに妹たちとは違う。大人の事情は理解できなくても、どことなく漂うぎこちない雰囲気を肌で感じているのだろうか? それが、大好きな叔父が三年も帰って来ないことに関係していると、それこそ子供の直感で感じ取っているのかも知れない。
 叔父に会いたい気持ちはもちろんあるだろう。だが、恐らく彼らの本当の望みとは、以前と変わらない家族の様子を―――自分たちの許へ叔父とその友人がやって来て過ごした、賑やかで温かい時間を―――もう一度その目で見て、安心したいということなのではないだろうか?
「そーせばサンタさんに頼むよりも、ユキおじちゃんに直接頼んだ方がいんでねっけ?」
 純一郎が勢い良く顔を上げた。
「おばちゃん、これ郵便屋さんで送れる?」
「封筒に入れて切手を貼ったら大丈夫らよ。けど、ユキおじちゃんがほんきに忙しかったら、お願いしても無理かもしんねっけね」
 それなら諦めもつくと思ったのだろう。純一郎はこくんと頷いた。
 八重子は立ち上がって、机の上に置いてあったペンケースから鉛筆と消しゴムを取り出した。引き出しをあちこち探って、カードの入る大きさの洋封筒も見つけ出し、一緒に純一郎の前に置いてやった。

 悠季は確かに忙しくしているのだろう。
 だが、その忙しさを帰れない口実にしているのもまた確かだった。
 そして姉も、その不自然さを充分に感じていながらも、現状に甘んじることしか出来ずにいる。
 どちらが悪いというのでもなく、譲歩するでも謝るでもなく、要はきっかけなのだと八重子は思う。今も、あの時も。いつだって姉と弟の間に必要なのは、臆病な背中を押してくれる、ほんの小さなきっかけなのだ。
 
 長女である姉は、子供の頃から親に近い目線で自分たち姉弟を見ていたように思う。たぶん両親が忙しかった所為もあっただろう。父が亡くなってからは一層母の片腕のようになり、その母亡き後は母親そのものだった。遠く離れた弟を想うとき、その弟の帰郷を迎えるとき、慈愛に満ちた母の眼差しをしていると八重子は感じたものだ。
 三年前のあの日、姉は出来れば触れたくなかった自分の気持ちに反して弟を問い質し、そのことで傷ついていた。自分本位な考えで自衛に終始してしまったと後悔していたが、姉は自分の役割を全うしただけだと八重子は思っている。今となっては、最も気に掛けていた末息子を叱ることも励ますことも出来ない両親に代わって、いつかは誰かが言わねばならない言葉を告げたのだ、と。
 折にふれて連絡は寄越すけれども一向に帰って来ない弟に、姉はどんな気持ちでいたのか……落胆と、不安と恐れ、それに一抹の安堵? 
 弟の側にももちろん言い分はあっただろう。あれから留学中だったイタリアに戻って更に一年を過ごし、帰国してからも新生活に馴染むので精一杯の様子だった。だが、仮に帰省する時間が取れたとしても、一生の伴侶と選んだ人を拒絶した家族の許へ、彼を残してひとりだけで帰ってくるのは気が引けて、きっと出来なかったに違いない。姉もそのことは予測していたはずだ。だからこそ苦しんでいたのだから。
 
 桐ノ院からの上京の誘いは、まさに八重子が待ち望んでいたきっかけだった。だから八重子は、困惑し切った顔で相談に来た姉に、シンプルなひと言だけを告げたのだ。
「ユキの晴れ舞台を見たいかどうかだけ、考えればいんでねろか」と。
 躊躇いを振り捨てた姉も、もしや弟と歩み寄る為のきっかけを、もうずっと探していたのかも知れない。 
 音楽のことはよく判らない。けれども、弟たちが渾身の力を振り絞って演奏していることは感じ取れた。そして、どれほど真剣に互いを必要としているかも。
 遊び半分の好奇心ではなく、一時の熱病に浮かされたチャラチャラした恋愛感情でもなく、険しい道のりを歩んでいく同志であり、励みであり、心の拠り所として、無くてはならない存在なのだと。
 桐ノ院は、彼らが一生を捧げる音楽を通じて、そのことを伝えたかったのだろう。
 そして、頑固で一途なあまり、思い決めたら時に盲目的に突っ走ってしまう弟が、どんな想いで男同士の結婚関係を選んだのか。言葉だけでは伝わって来なかった覚悟のほども、あのステージからは読み取れた。
 姉もたぶん同じように感じていたのだと思う。
 目元を潤ませていた姉の気持ちも、汗に濡れ上気した頬を嬉しい驚きに綻ばせた弟の気持ちも本心に違いなく、ならばどちらも瑣末な枝葉の逡巡は削ぎ落とせるはずだ。
 あとは、きっかけさえあれば。


 「ごはんらよー!」と呼ぶ姉の声に、八重子は物思いから引き戻された。「は〜い!」と元気に答えた桃子と桜子が部屋を走り出していく。兄の手元を真剣に見詰めていた浩二が顔を上げ、純一郎が大人のようにふぅ、と溜息を吐く。「書けた?」と訊ねると、生真面目な表情で封筒を掲げて見せた。
 兄に続いて「俺も書くー!」と浩二が叫び、その浩二につられて訳の判らないまま桃子と桜子も名乗りを上げていたが、純一郎が上手く宥めたようだ。カードは一通だけで、封筒の裏には四人の名前。
「おばちゃん、ユキおじちゃんちの住所教えて」
 アドレス帳を取り出そうとして、ふと思いついた。
「宛名書きは消えねぇようにペンで書いたがいっけね。ごはんの後でお母さんに頼んで、書いてもろたらどうらろ?」
 それなら何故おばちゃんは書いてくれないのだろうか?
 そんな疑問が過ぎったらしい顔で八重子を見上げ、相談するように浩二と目を見交わし、それから二人一緒に頷いた。
「さ、手洗ってから行こ」
 二人の背中に手を添えて、三人一緒に廊下に踏み出した。
 古い家の中には、温かい空気とお腹が鳴り出しそうないい匂いが満ちていた。 



  つづく



                                                                                                                                                                                                                                                         
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