遠き故郷より 1   
― 芙美子 ― 


 家事に育児に田畑の世話まで一手に引き受ける芙美子の日常は、目が回るような毎日だ。年の瀬ともなるとそれに新年を迎える準備が加わって、息つく間もない忙しさになる。畑仕事が減った分、楽になっても良さそうなものだが、替わりに雪かきが増えるからなのか……まあ、年末年始は忙しいものだと昔から決まっているのだから仕方がない。
 聞けば近頃の若い主婦には大掃除もお節作りも一切やらない人がいるというが、芙美子には信じられない。それに、この田舎ではありえないことだ。煤払いも餅つきもお節作りも年始客のもてなしも、すべては昔から伝えられ繰り返されてきた慣習であり、しきたりであり、省略することなど端から考えたこともない。
 今も、祖母から母へ、母から自分へと教えられた通りに糠袋を使って廊下を磨いている。長い廊下をすべて磨き上げる頃には息は上がるし腕はガクガクになるが、年月を経た木が柔らかな艶を纏い、黒光りしていくのを見ていると、やはり昔の人は偉大だと思えてくる。
 這いつくばって額に汗する芙美子の横を、四人の子供たちがバタバタと走り抜けて行った。春には小学校に上がる末の娘たちも随分と活発になって、四人ともまさにやんちゃ盛り。この子たちが家中に振りまく騒々しい空気も、日々の気忙しさに一役買っているに違いない。
「これっ、あんたたち!」
 叱りはしたものの、「外で遊べって」という常套句は続けられなかった。縁側から見る庭は既に一面の雪景色で、その上を覆うように大粒の雪が降りしきっている。湿り気をたっぷりと含んだ重たい雪は冬の間中しんしんと降り積もり、この土地に暮らす者を家の中に捕り込める。今年は初雪が早かったから雪が多いかも知れない。そういえばあの冬も雪が多かった、と芙美子は手を止めて低く垂れ込めた雪雲を見上げた。

 むごいことを言った―――
 あの日のことを思い出す度に、芙美子の心は重く塞がれる。
 この雪空のように、自分を取り巻く世界が冷たい灰色に塗りつぶされて、永遠に春が来ないような心地になる。
 波風を立てずに済むならそれに越したことはない、と多少の疑念には目を瞑り耳を塞ぐつもりだった。だからあんな風に問い質すつもりなど無かったのだ。 それなのに―――
『男同士の親友って、まるで恋人みたいに仲がいいんらね』
 従姉妹の早苗が無邪気に発した言葉は、芙美子には破滅の始まりに思えたのだった。



 弟の悠季は万事に控えめで大人しく、他人と意見が食い違えば自分を抑えて合わせてしまうような子だった。男の子にしては些か優しすぎる気性も然ることながら、衝突することで相手の反感を買い、周囲から悪く言われることを恐れるような、そんな臆病な気の小ささがあった。中学、高校時代を通じて友人付き合いが希薄だったのも、そうして他人との間に一線を引き、生の感情を剥き出しにすることが無かった所為だろう。
 そんな弟が周囲の目も思惑も気にせず自分の意志を貫いたのは、芙美子が知る限り二度だけ。
 ヴァイオリンがやりたいと言い出した時と、東京の音大に行く決意を告げた時だけだ。
 自分にとって絶対に譲れない、本当に不可欠なものを手にする為にだけ、悠季は優しげな外面の中に秘めたこの上なく意地固い自己を主張する。
 そして、三度目があの日だった。

 こんな日がいつかは来る、と芙美子は予感していたように思う。思い返せば、妹たちが「怪しい」と言い出す以前―――盆の帰省に親友を伴って来ると聞かされた日から、違和感は確かに覚えていたのだ。ただ疑念はあっても、弟の決意の程までは量れなかったというだけで。
 だからその返答を聞いた時、芙美子は驚愕よりも深い深い絶望感に囚われたのだった。
『僕と圭は結婚式を挙げた仲らんさ』
 静かで穏やかで揺るぎの無い、覚悟を決めた者の口調だった。
 その瞬間、芙美子は悟った。弟は家族を捨て、彼を選んだのだ、と。
 家族の祝福などもとより望めない人生を、そうと承知のうえで弟は既に選び取っている―――妥協も譲歩も絶対に有り得ないレベルで。
  
 胸の中にぽっかりと口を開けた暗黒の深淵が瞬く間に広がり、芙美子を呑み込もうとする。その引力に翻弄されながらも(守らなければ!)と思った。
 早苗の話は早晩親戚中に流布するだろう。刺激の少ない田舎では、知人の近況も噂話と同様に格好の娯楽ネタだ。早苗は怪しんでいなくとも、話を聞かされた者たちは何と思う? 噂話が大好きなあの大叔母は!? 何かにつけて口を出してくる、お節介なあの叔父は!? たくさんの好奇に満ちた眼差しが芙美子の目にありありと浮かぶ。そして、そんな危険な観衆の前に、あの弟たちは今後もきっと姿を見せるのだ。危機の重大さに気づかない者の軽率さで、暢気に連れ立って帰って来ては、何度も。
 ああ、守らなければ!
 夫を、子供たちを、家族の平穏な生活を。受け継いだこの守村の家を……!

 迸る感情のままに投げつけた言葉の数々は、姉として当然の怒りと悲しみの表れだったと思う。弟には酷な要求も、守るべきものを守る為には必要だった。だから、自分の行為は間違っていない、間違っていないのだ。
 だが、幾度自分に言い聞かせても、芙美子の心は一向に晴れなかった。それどころか、自分の都合だけを振りかざし、弟の気持ちをまるで思い遣ってやれなかった自分の薄情な言葉ばかりが思い返される。
 家を継ぐことになった時も、芙美子は弟に対して何も含むところはなかった。ただ少しばかり時期が早まっただけのことだと思っていた。漠然とではあるが、いずれ見合い結婚でもして、祖母や母が営んできた兼業農家の暮らしを、自分もこの土地で(あるいは似たような環境で)同じように営んでいくのだろうと考えていたからだ。
 けれども、自分でも気づかぬうちに、弟を恨みに思っていたのだろうか?
 長男の責務を投げ出し、今また家族を捨てた弟に、こちらも同様の仕打ちを返したいと思うほどに……? 
 弟の頬を叩いてしまった手のひらは、暫くの間ジンジンと熱い痛みを訴えていた。だが、それ以上に耐え難い痛みが、今もまだ芙美子の心を苛み続けている。

 悠季はあれから一度も故郷に足を踏み入れていない。
 あの日から二年の月日が流れ―――事実上の絶縁宣言だった「ひとりだけで帰って来い」という残酷な要請を芙美子が撤回した後も、彼らは姿を見せない。一度断ち切ってしまった絆は、二度とは結び直せないものなのだろうか? あるいは不恰好な結び目が出来てしまった所為で、通い合うべき気持ちが阻まれているのだろうか?
 それとも―――


「母ちゃん、あそぼー!」
「あそぼー」
 手を止めたままぼんやりしている芙美子を目ざとく見つけて、桃子と桜子が纏わりついてきた。
「かくれんぼしよう!」
「ねえ、かくれんぼー!」
 芙美子の手を引き、腕を揺さぶり、背中に負ぶさってくる。
「これ、母ちゃんは正月の支度しよるんだっけ、あっち行って兄ちゃんたちと遊べって」
 そう言って追い払うつもりが、話し声を聞きつけた純一郎と浩二までが走り寄ってきて、そのうえ芙美子にとっては何よりも避けて通りたい問いを投げかけて来る。
「正月にはユキおじちゃん帰ってくる?」
「キリン兄ちゃんは?」
「ねえ、帰ってくる!?」
 何度こうして訊ねられただろう。子供たちの一途な眼差しに見つめられる度に、芙美子の心に刺さったままの棘が疼く。たったの三度、それも僅かな時間を共に過ごしただけの桐ノ院を、子供たちは大好きな叔父と同列に置いて語る。大人の事情とは無縁の子供ならではの尺度、単純な思考によるものではあっても、彼らは論理的な判断が及ばない分を純粋で柔軟な心で補い、感覚だけで物事の核心を捉えてしまう。
 あの長身の青年が、大好きな叔父にとって特別な存在なのだということを。
 弟も桐ノ院も、子供たちにとっては大切な、家族と同じように慈しみ合うべき輪の中に存在しているのだ。
「おじちゃんたちは、お仕事が忙しんらよ」
 縋るような目を向けてくる子供たちをいつもの手で宥める。確かめた訳ではないが、弟たちはきっと今年も帰って来ないだろう。
「そーせば、東京に行く?」
「おじちゃんたちに会いに行く?」
「ディズニーランド!」
「去年は特別らったんらよ」
 頭を振る芙美子に、子供たちが目に見えて落胆する。諦めきれない様子で傍を離れようとしない子供たちに、途方に暮れる。ガラガラと玄関の引き戸が開く音に続いて「ただいまぁ〜」と届いた八重子の声は、天の助けだった。
「あ、八重おばちゃんら!」
「おかえりー!」
 バタバタと走り去っていく子供たちの後姿を眺めながら、昨年のことを思い返す。後ろめたさに肩を縮めながらも桐ノ院の招きに甘えて上京した、あんな勇気が自分の中からよく出てきたものだと思う。 いや、勇気ではなく、単に厚顔なだけなのか。そのくせ、あれからはもう一歩も踏み出すことが出来ずにいるのだ。状況は何ひとつ進展していないのに。
 心から歩み寄ることが出来ない臆病な自分に、芙美子は忸怩たる思いでいた。 



 つづく
 
 
 
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