圭がキッチンに行っている隙に僕はCDを入れ替え、リモコンを持って再びカウチに座った。さくらんぼをひとつ摘んで口に入れたところで戻ってきた圭は、BGMが無くなっていることに気付き、首を捻りながらコンポに近付こうとしたが、僕が声をかけて手招きしたので大人しくカウチに収まった。
 新たに満たしたグラスをチンッと合わせて「僕たちの始まりの日に」と唱和して。途切れることなく気泡が湧き上がるグラスを、ふたり一緒に傾けた。

 尽きない想い。愛しい愛しいと一途に湧き上がる想い。姿を変えても、愛しさは同じ。
 いつか最後の一滴が無くなるまで、僕らもこうして途切れない愛を注ぎ続けられたらいい。時には軽やかに転がり、時には緩やかに広がり、時には儚く弾けるとしても、どれもが愛しさのかたち。きみも僕も変わっていくけれど、それは自然なことで、互いを慈しむ気持ちは生涯変わらないから。その時々の愛のかたちを大切にして、愉しんでいこう。

「美味しいですか?」
「うん。甘酸っぱくて、サイコー!」
 口をもごもごさせながら返事をすると、圭は「どれ」なんて言いながら、僕の口から食べかけのさくらんぼを奪おうと涼しい顔で唇を寄せてきて。僕はチャンス到来とばかりに種だけを圭の口に押し込み、すかさずリモコンのプレイボタンを押した。
 響き渡るタンホイザーに圭は目を真ん丸くして呆気に取られていたが、やがて片手で顔を覆うと、はーっと大きな息を吐いて俯いた。
「きみって人は…………」
 そう言ったきり、また大きな溜息。
「圭?気を悪くした?」
 ちょっと心配になって顔を覗き込んだ僕を、チラリと上目遣いに見て。それから大きな手のひらでつるりと顔を撫でて。僕に向けた顔は思いっきり拗ねていた。
「きみは、もう平気なのですか?」
 確かに僕は、あの夜以来殆どこの曲を聴いていない。なんとなく気恥ずかしいし、やっぱり辛い思いが甦りそうで避けていた。でも、日本とイタリアで別居生活をしていた頃に偶々聴く機会があって、その時僕は別の意味で辛い思いを実感したのだった。
 そう。甦ったのは痛みや恐怖じゃなく、屈辱でもなく―――僕の身体中を圭の指と唇が辿る感触、それから僕の中に力強く分け入ってくる圭自身の火傷しそうに熱いあの感触だった。
「今ならもう大丈夫かな、と思ったんだ……うん、大丈夫そう」
 本当は身体の奥底に鈍い疼きが生まれていたけれど。今はあの時と違って、きみが傍に居るから。
「今日のきみは、本当にどこまでも逞しい。僕は驚いて種を飲み込んでしまいましたよ」
「えっ?」
「僕がさくらんぼの樹になってしまったら、どうしてくれるんです?」
 恨めしそうな目をして顔を寄せてきて。僕は、随分のっぽの樹になるんだろうなぁ、なんてバカなことを考えた所為で零れそうになる笑いを堪えながら、目を合わせたまま圭の頬を両手で包み込んだ。
「毎日心を込めて世話をしてね、実が生ったら誰にもやらないで、僕が一粒残さず食べてあげるよ」
 きみが拗ねて甘える姿を、僕はもう数え切れないぐらい目にしているけれど。なんで今夜は、こんなにきみが可愛くて愛しくて堪らないんだろう?
 触れるだけの口づけをして、それから圭を力いっぱい抱きしめた。
「ねえ、圭? 僕はこの頃、きみよりも大きく逞しくなって、僕の腕の中にきみをすっぽり抱き込んで慈しんであげたいと思うことがあるよ」
 じっと抱かれたまま僕のしたいようにさせてくれている圭を、僕は手のひらで背中を撫でたり、ぎゅっと抱きしめたり。頬を摺り寄せたり、髪に口づけを落としたり。きみがいつもその腕に僕を抱きしめてくれる時も、こんな堪らない愛しさを感じてくれているのだろうかと思いながら、きみをこの手で慈しむ感触にうっとりと酔っていた。

「悠季……」
 ぞくっとするほど艶っぽい声を耳元に落とされて夢の中から引き戻され、僕は思わず身体を離して圭の顔を見た。
「それ…は、今夜…きみが…を………みますか?」
 圭の声はとても低く潜められていて、おまけにちょうどタンホイザーがクライマックスに差し掛かっていたものだから、僕の耳に届いたのは途切れ途切れの言葉。でも。雄弁に物語る圭の瞳といつもより柔らかな誘うような微笑を見て、僕の頭の中にはその言葉がはっきりと浮かんでしまった。途端に頬がカッと燃えるように熱くなり頭の中が真っ白になる。とんでもない!そんなこと考えてみたこともない!と言おうとした瞬間、背筋が震えるような感覚を覚え、言葉を失った。
 僕自身が気付いていなかったものの正体を圭の手で暴かれる、これはまるで初めてのあの夜と同じ。けれど感じているのは屈辱ではなく、激しい羞恥と狼狽、そして理由の解らない高揚感。
「悠季……いらっしゃい」
 部屋を満たすタンホイザーの荘厳な響きに思考が麻痺する。
 僕の理性を溶かし思いのままに操るその声に、絡め捕られる。
「さあ、悠季……!」
 妖艶な微笑みと共に差し出された圭の手を、僕はそろそろと握り返した。



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