3 小さく掠れた声が溜息のように一度だけ僕の名を呼んだ。 そして、息を潜めるように動きを止めてしまった圭。僕はそろそろと手探りし、カウチの広い座面の上に無造作に投げ出されていた圭の左手に、そっと右手を重ねた。上手く言葉に出来ない想いも、この手から伝わるように、と願いながら。 「あのね、もう何年も前からこの日に時間が持てたら、きみに話をしたいと思っていたんだ。これまでにも何度か『僕も忘れるから、きみも忘れろ』って言ったけど……それって不自然だと思えてきてね。だって、僕らの歴史の中では大事件でさ、特別な意味を持つ日だろう? 毎年この日が近付くとやっぱり僕は思い出してる。きみも思い出すことがあるんじゃないかと思いながら、ね」 視界の隅で、圭がコクリと頷く。 「だから僕は、あの時のことを……自分の気持ちを殆ど話さなかったけど……きみに、聞いてもらいたいんだ。今更蒸し返すようだけど……」 「……きみにはその権利がありますし……僕は、どんな言葉も……受け入れます」 低く、直接身体に響いてくるような厳粛な声が、甘んじて罰を受けようとする罪人のもののように聞こえる。重ねていただけの手を、僕は指を絡めて握りなおした。 「圭、違うんだ。僕はきみの行為を責めようと思ってるんじゃない。それに、きみの気持ちに干渉するつもりもないんだ。僕は今日という日を、今のまま……お互い意識していながら口には出せないで……こんな風に忘れたフリをして過ごすぐらいなら、きちんと覚えておくべきじゃないかと考えてる。僕らにとって大切な日として」 このわだかまりは、僕らを歪にする。歪んだ土台の上に家が建たないように、歪なままでいくら愛情を積み重ねても必ずいつかは崩れてしまう。だから、未だに互いの心をこっそりと探り合っているようなこの日のことを、すべて曝け出して、確かめ合って、想いを共有して。そうすれば、僕らはきっと、もっと遠くまで行けるようになる。 「圭、飲みながら聞いててよね? じゃなきゃ、僕は口下手なうえに緊張しちゃって……ますます上手く話せる自信がなくなるから」 空いている左手でグラスを取って、残っていたシャンパンを飲み干した。圭も同じように右手で飲み干し、空になったふたつのグラスをまた満たしてくれる。 「悠季……ひとつだけお願いしてもいいですか?」 「うん、なに?」 「キスしてください。僕が謙虚な気持ちで、きみの話を聞けるように」 真っ直ぐ僕に注がれている瞳は、仄かな灯りの中で不安だと揺らめいているように見えた。 大丈夫、僕はきみを愛しているよ。何があっても、もうきみの手を離すつもりなんかない。 ずっとどこまでも、きみと愛し合って共に生きて行きたい。だから、気付いて欲しいだけなんだ。 微笑みながら頷いて、頬に手を添えた。唇を重ねる。啄ばんで、甘噛みして、優しく吸い上げて、愛してるよと囁いて、そっと離れた。 「僕はね、たぶん初めて会った時から、きみに強烈に惹かれていたんだと思う。音楽の才能や完璧な容姿、経済力、明晰な頭脳、堂々と自信に溢れた態度と人を惹きつけるカリスマ性。僕が欲しくて堪らなかったものを全部持ってるきみが羨ましくて。でも、それを尊敬や憧れで素直に表現出来なかったのは、きみも知っての通り、僕のいじけ性の所為だよ。変なプライドだけは一人前だったから、会う度にきみとの差を思い知らされるのが悔しくて、顔を合わせるのも辛くなって。嫉妬と羨望で凝り固まって憎しみに近いものすら感じていたかも知れない。そんな醜い自分が嫌で、全部捨てて逃げ出そうとしていた。退団届を用意してフジミに行って、でも出しそびれてしまって……。きみの部屋に連れて行かれたのは、そんな夜だったんだよ」 僕は一旦言葉を切って、シャンパンでカラカラになった咽喉を潤した。弾ける泡が小さな痛みにも似た感触を残して身体の内側を滑り降りていく。 「我に返ったのは、きみに腕を引かれてベッドへ誘われた時だった。僕はあまりに無知だったし、きみにキスされるなんて想像の範囲を超えたことだったし……だから、それまでは何が起きたのか良く判っていなかったんだ」 「とにかく痛かった…………意地もプライドも投げ出すぐらい」 ビクッ、と圭の身体が震えた。 「それから、酷い格好の貧弱なこの身体をきみの目に晒している羞恥、この先起こることへの恐怖、そして、屈辱。意志の自由を力で捻じ伏せられ奪われて、僕自身も知らなかった僕の姿をきみの手で暴かれて、見せ付けられる屈辱。酷く混乱していたけれど覚えてることもあるんだ。大音量のタンホイザーときみが一緒になって、僕の身体の中を掻き回しているような感覚だった。気が遠くなるような痛みの中で、でも、僕は確かに……快感を覚えていた。だから……尚更許せなかったんだ」 圭の手に力がこもり、指先が僕の手の甲に食い込む。そっと様子を窺うと、俯き加減の端正な横顔は苦しげに歪められていて、きつく瞑った瞼の先で睫毛が細かく震えていた。 ―――圭……ごめん。事実を並べるだけでもきみを糾弾するに等しいと解っていながら。でも、僕の目的はそんなことじゃないから。だから、もう少しだけ我慢して……。 「男の僕が男のきみに女のように抱かれて悦びを感じてしまうなんて……それをきみに知られているなんて……堪らない屈辱だった。だから、きみを拒み続けた。すべてを否定してしまえば、自分のつまらないプライドが守れる気がしたんだ」 グラスを持ち上げた。注がれてから結構時間が経っているのに、小さな気泡は未だ底から一筋に立ち昇り、水面を滑るように静かに広がっていく。一息に飲み干して空になったグラスに、今度は僕が新たな一杯を注ぐ。クーラーに戻したボトルが溶け残った氷を鳴らし、その音が静まると、部屋は再びハープの調べだけに包まれた。 「圭?」 「……はい」 「僕が今話したこと……きみは聞くまでもなく、全部解っていたんだろう?」 「……いえ……少しは気付いていたこともありますが……大半はきみに暴力を働いた後で想像しただけです。それ以前には僕の行為できみが受けるだろう心の傷も、きみの痛みも、想像してみようとさえしなかった。きみはストレートだと直感していたのにゲイかもしれないという話を聞いて、これ幸いとそれに乗じた。弁解の余地もなければ何を以ってしても償えない卑劣な行為だったと……きみに申し訳なく思っています」 「そっか……お互い様かも知れないね」 「お互い様、ですか?」 「うん。ゲイだと思ったというきみの誤解は、ちっぽけなプライドを守りたい僕には好都合だったからさ。誤解が生んだ仕方の無い事故だったって思うことで、卑怯にも現実から目を逸らした。僕は、本当はきみの行為を憎みながらも、きみの好意をちゃんと受け止めていたんだと思う。それが証拠に、八坂に酷い目に遭わされた時もアパートを焼け出された時も、きみの所へ自然に足が向いた。きみなら大丈夫だ、僕を受け止めてくれるって―――信頼は、たとえ無意識にでも、好感を持っていなければ生まれないだろう?」 「悠季……」 「自分の意志できみを受け入れた時も、きみはフジミにとって絶対必要な存在だから僕はボランティアをするんだ、恋じゃないんだって……必死で自分に言い訳してさ。誰よりきみの存在に頼っていたのは、僕だったのにね。拒みながらも抱かれれば悦びを感じて、最後には貪欲にきみを求めてしまう自分の身体も、男同士だってことに抵抗を感じながら、堪らなくきみに惹かれていく自分の心も……認めたくなかった。きみの暴力に対して僕が恐怖の記憶を引き摺っていたのは、最初の僅かな間だけだ。僕はきみの手で心も身体も変わっていく自分自身に恐怖し、嫌悪を感じていたんだよ」 「悠季……」 深いバリトンの少し掠れたような囁き。僕は最初からこの声に魅了されていた。そんな風に想いを込めて名前を呼ばれたことなんかなかった。ざわざわと心が熱く騒ぎ出すような感覚など、そうしてきみに名前を呼ばれるまで、僕は知らなかった。 「僕の気持ち……きみには何もかもバレてただろう?なにしろ全部顔に出ちゃう性質だからさ」 「きみの心も身体も、少しずつ僕を受け入れてくれていると感じてはいましたが、愛されていると確信するには到底至りませんでした。伴侶となり愛していると日々告げあう今でも、決してきみの愛情を疑っている訳ではないのに、どこかで怯えている。人を本気で愛することが、こんなにも自分を心許無くさせるなんて―――至上の歓びだけでなく、絶え間なく小さな不安を与えるものなのだと、きみを愛して初めて僕は知りました」 「そうだね、僕もだよ。……ごめん、こんな話をして、きみにいっぱい不安な思いをさせたね」 「でも、きみは僕たちの大切な日として覚えておきたいと言った。少なくともふたりの未来に対して、前向きな気持ちでこの時間を設けたのでしょう?」 「うん。もちろんだよ」 「ならば……僕にも少し話しをさせてもらえませんか?」 「うん。聞かせて……」 繋いだ手を膝の上に引き寄せられ、自然と圭の肩に頭を凭せ掛ける格好になった。エアコンの効いた部屋の中でその温もりが心地良く、圭の言葉に自分の意図が伝わった手ごたえを感じて、僕は身体の力を抜いてほっと息を吐いた。 「僕は、欲しがり方を知らない子供でした。物に執着すること自体無かった所為でもありますが、必要だと思う物はひと言命じるだけで当然のように用意され、強請ることも懇願することも無かった。けれど人の気持ちだけはどうにもならない。愛されることを実感できずに育った僕は、他者を愛して気持ちを伝えるという術を知らなかった。対人関係はどれもみな打算と駆け引きだけのゲームのようなもので、自ら進んで友人を得ようとしたことなど一度も無く、相手と目的によって、優位な立場を得るか一夜の温もりを得るかの違いだけでした。辛うじて音楽への情熱だけは持ち続けていたものの、M響で店晒しの憂き目に遭い、意地の突っ張りだけで通うのにも限界を感じて。美しく暖かく音を楽しむものだという僕の理想の音楽は枯死しかけていた。僕がきみの音に出逢ったのは、そんな時でした」 繋いだ僕の手を、圭はいつの間にか両手で包み込むようにして静かに撫でていた。慈しむような動き、肌を滑る温かな手のひらから圭の想いが沁み込んでくる。愛していると熱く狂おしく告げられるよりも、深く切なく届く言葉。 「以前にも話しましたが、きみの奏でるヴァイオリンの音色は本当に温かく僕の中に沁み込んできて、カラカラに乾いた僕の心を癒してくれたのですよ。僕のオケの要になるのはこの音だ、どうしても欲しいと思った途端、咽喉が灼けつくような熱さを感じました。きみを探して、探して、ようやく逢えたきみにひと目で虜になり、心も身体もきみのすべてが欲しいと夜も日も無く焦がれ抜いて―――あれほど強く誰かを求めたのは初めてでした。それなのに、この想いをどうやって伝えようかと立ち往生するうちに、きみはどんどん心を閉ざしていって僕は焦るばかりで。あの夜、きみに関係ないと言われて、僕は怒りにも似た激しい悲しみに逆上しました。きみはこの世に唯ひとりの僕のヴァイオリン、生涯共に歩んで行きたいと、僕は運命の出逢いだと信じて疑っていませんでしたから。心を得る術は知らなくても身体を手に入れる術なら知っている。それだけでも僕のものにしたら、きみの心も手に入れられるかも知れないと―――きみの気持ちも考えず、本当に浅はかでした」 僕は途中から頭を上げて、圭の横顔を見つめていた。普段は口数の少ない圭が、未だに多くを語ろうとしない生い立ちや胸の内を淡々と綴る言葉は、切ない痛みを伴って胸に響く。僕は自分が話していた時よりもありありと、あの夜のことを思い出していた。 欲しがり方を知らなかったという圭は剥き出しの生々しい心を僕にぶつけてきたけれど、それは多分すべての人間が本能のレベルで唯一知っている方法。腹を空かせた赤ん坊が泣いて母親の乳を欲しがるのと同じ。そうして生命の危機を回避するが如く、あの夜の圭は存在の危機を回避しようとしたのだろうか? とても受け止めきれないと―――これまでに幾度も圭の激情に慄いたことがあるけれど、それも道理だ。きみは存在をかけて全身全霊で僕を求めてきたのだろうから。 ああ……僕はいったいどんな僕になれば、きみに満ち足りた幸せな想いをさせてやれるのだろう? 「何度も言ったけどさ、きみの行為は確かに褒められたことじゃないけど、そのお陰で今の僕らがあるし、ヴァイオリニストの守村悠季も生まれたんだ。僕は頑固者だから、並大抵のことじゃこうはならなかったと思うよ」 ありがとう、と囁いて頬に口づけた。 「悠季、大変光栄ですが、それは違います。きみは生まれながらにミューズの恩寵を受けた存在です。僕がいなくても、きっといずれは頭角を現した。でも、そうですね……僕には先物買いの才能があるのかも知れません」 目だけを悪戯っぽく微笑ませて僕を見るその表情に、くすり、と笑いが零れた。 「じゃあ、きみはお父上の後を継いで事業家になってもきっと成功したね……ってのは冗談だけどさ。真面目な話、僕はね、人から欲しがられたことなんか一度も無かったから、きみからあんなに真っ直ぐで熱い想いを向けられて、正直なところタジタジだった。ヴァイオリンはヘボだし、地味で面白味がなくて見た目も貧弱でさ、僕なんかのどこがいいんだろうってずっと思っていたよ」 「ええ。僕がどんなにきみの素晴らしさを讃えて自信を持てと言っても、きみはなかなか聞き入れてくれませんでしたね。だから僕の方こそ自信を失くしそうでした。僕の言葉を信じてもらえない、つまりは、僕自身がきみの信頼を得られていないということですから」 「そうだよな。ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけどね。ほら、自信を持つってさ、自分の価値を認めて好きにならないと出来ないことだろう? だから、なかなかね。でも、僕自身が好きになれなかった僕をきみが愛してくれて……誰より愛しくて尊敬するきみに愛されている僕なんだって思うと、だんだん自分が価値のあるものに思えてきたんだ。この頃は少し誇らしく思えるぐらいにね。今にして思うと、きみにあれほど欲しがってもらえたあの頃の僕も、ちょっとはイケてたのかな?って―――これは自惚れが過ぎるよね」 僕を柔らかく見つめていた切れ長の目が、だんだん丸く見開かれていったかと思うと、最後にはきゅっと―――。圭は泣き笑いのように顔を顰めて僕を腕の中に強く抱き込み、絞り出すような声で僕の名前を呼んだ。 「圭? きみに愛されて……僕は変わっただろう?」 「ええ……ええ! きみはますます輝いて……僕はもう、どうしていいのか……」 「そのことを、きみに少しでも誇りに思ってもらえるように……僕はこれからも頑張るよ」 「悠季…………!」 触れ合った頬の熱さを確かめるように唇で辿り、吐息を重ねる。愛してると囁き合い受け止め合う啄ばむような口づけが、迸る想いごと呑み込むように深くなっていく。目を閉じて唇の甘さを堪能し、僅かに目を開いて互いの陶酔を見守る。圭の長く濃い睫毛が微かに濡れて光るのを見て、僕は酔いも手伝って霞みがかる頭の中で、今夜僕らの歴史に新たな旋律が書き加えられたのを感じていた。 ほぅっと熱い息を吐いてあがった呼吸を鎮めて。なんだか面映いと思いながら顔を上げると、圭の耳が薄っすらと赤くなっているのに気付いてしまった。ポーカーフェイスで固めた押し出しのいい外面と違って、きみが実は結構照れ屋なことも、僕の前では表情を繕い切れないことも、僕はもうとっくに知っている。そんなきみを見る度に、可愛くて抱きしめたいと思うこの頃の僕は、やっぱり強くなったんだろうか? 「ねえ、圭? もう一度乾杯しようよ」 「ええ、ですが悠季、シャンパンがもうお終いですので、今夜はこの辺にしませんか?」 含みのあるその流し目は催促だな、と思ったけれど。 「実はもう一本あるんだ。それに、きみのお土産のさくらんぼ、まだ食べてないよ。ねっ?」 「……わかりました。今度は僕が持ってきますから、きみはここに居てください」 すかさず腰を浮かせた僕の腕を引いて止めると、圭は苦笑しながら身軽に立ち上がった。 朝からの緊張が一気に解れて僕はかなり開放的な気分になっていた。思ったより酔っていたのかも知れない。だから、ほんの思いつきの悪戯心だったのだけれど。これがとんでもない事態に発展するなど、その時の僕は想像もしていなかった。 |
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