生徒のレッスンの合間に自分の練習をこなし、大学からの帰りに手早く買い物をして。家に帰り着いたのは6時過ぎだった。雨が降らなくて助かったけれど、梅雨時特有の蒸し暑さにすっかり汗だくになってしまい、食材を冷蔵庫に放り込むと真っ先にシャワーを浴びた。
 記念日に相応しく豪華にしようかとも考えたけれど、結局圭の好きな和食のメニューを並べ、それにビールを添えた普段より少しだけご馳走という感じの献立にした。久しぶりに共にできる夕食なのに、圭を変に緊張させたくなかったから。いつものように寛いで、食事を楽しんで。話をするのはその後でいい。ピアノ室に誘って飲みながらがいいだろうと思い、買ってきたシャンパンを目に付かない冷蔵庫の奥に入れた。


 予定より30分近くも早く玄関の開く音がして、僕は慌てて迎えに出た。
 圭を抱きしめてあげたいと思う時、僕は彼が靴を脱ぐ前にすかさず首に両腕を廻して抱き寄せる。土間と床の段差を利用して、普通なら胸に甘えるしかない身長差を少しは緩和できるから。圭は僕の気分を読み取ってくれて、軽く屈んで僕の肩に顔を埋めた。首筋にかかる息が少し弾んでいる。
「圭? きみ、走ってきたの?」
「はい。一刻も早くきみに会いたくて」
 体力には自信があると豪語する圭が、軽くとは言え息を弾ませるほど?
 家路を急ぐ人で賑わう富士見銀座を、モデル並みの美貌と体躯を持つこんなイイ男が、パリッとしたジャケットとスラックス姿のまま髪を振り乱して疾走するなんて。みんなびっくりして振り返っただろうなぁ。それとも、怖がって慌てて道を空けただろうか?だって、スゴイ迫力だよねぇ、きっと。想像し始めると可笑しくて、くすくす笑いが止まらなくなった。
「悠季、何を笑っているんです? お帰りのキスがまだですが」
「ぷっ……くくくく………ご、ごめん……だって……」
 滲んだ涙を指先で拭おうとしたら、サッと眼鏡を取り上げられて唇を塞がれた。まだ治まりきっていない笑いの所為で余計に息が苦しくて、あっという間に頭の芯がぼうっとしてくる。早々と力の抜けてしまった僕の身体を抱き支え、唇に触れたままで艶めかしいバリトンが囁く。
「では、これからゆっくり理由を聞かせてもらいましょうか」
 抱き上げようとする気配に、僕は慌てて抵抗した。
 このまま済し崩しに事を運ばれたら、今夜の計画が……!
「あ、待って!ねえ、ご飯食べながら話すから!圭っ、お願いっ!」
「観念なさい、悠季。今度は逃がしませんよ」
 身を捩って暴れた拍子に背中の方でカサカサとポリ袋の鳴る音がして。僕は藁にも縋る思いで、それに救いを求めた。
「圭っ、それ何?何を買ってきたの? ねえ、見せてよ!」
 僕をガッシリと拘束していた力強い腕が、ふっと緩む。見え透いた幼稚なその場凌ぎを、圭は苦笑して受け入れてくれた。
「まったく……今日のきみは本当に手強いですね」
「ごめん。だってさ、せっかくご飯作ったんだから……ね?」
「きみの気持ちと労力を無駄にするわけにはいきませんね。ほら、土産です」
 手渡されたポリ袋の中を覗くと、進物用のきれいに箱詰めされたさくらんぼが入っていた。
「わぁ〜、すごい!」
 買い物の途中で見かけたお徳用のパック入りだって結構いい値段だったから、これは相当高いぞと思ったけれど、最近その手のことは余程のことがない限り、口にしない。こうした行為が圭の愛情表現であるのは言うまでもないが、問題はその価値。迸る想いをそのまま素直に言葉や行動で示すことが、圭にとっては至高に近い価値を持つことなんだと。それが長い付き合いの中でようやく解ってきたから。
「これ、駅前の果物屋さん?」
「はい。ひと目見て、きみが目に浮かびましたので」
「なんで?僕の好物だから?」
「ツヤツヤした薄紅の濃淡は見るからに瑞々しくて、真っ赤に熟れたアメリカンチェリーなどにはない無垢な美しさだと魅せられまして。丸ごと全部食べてしまいたいと……」
 顔が火照る。そのニヤニヤ笑いは何を想像してるんだ!?って、深読みして過敏に反応する僕も僕なんだろうけれど。そんな顔をされると負けず嫌いの虫が騒ぎ出してしまう。
「いいよ。種も枝も、全部残さず食べて」
 耳元に早口で囁いて、捕まえられる前に身を翻した。
「でも、ご飯の後でねっ! ほら、早くシャワー浴びといで!」
「悠季……っ!」
 圭の悔しそうな声を背中にキッチンに逃げ込んだ僕は、何時になく興奮気味だと自覚していた。やっぱり、少し緊張しているのかも知れない。そう、今夜僕がやろうとしていることは、圭の傷口を覆う瘡蓋を剥がすに等しい行為なのだろうから。


 互いの仕事のことや時々しか顔を出せなくなったフジミの様子などを伝え合いながら、やっぱり家で食べるご飯はいいねって笑い合って。玄関で僕が笑った理由も約束どおり話したら、圭はくるりと目を回して悪戯っぽく答えた。走るために、わざわざ裏通りを選んで帰って来たんだそうだ。出会い頭に自転車なんかとぶつかったりしなくて本当に良かった。だって、自転車の方も無事じゃ済まなかっただろうからね。
 そうして会話を楽しみながら、冷たいビールを少々と炊き立ての白いご飯をたっぷり堪能して。僕らは久しぶりにふたりでとる夕食を終えた。
「圭?デザートはピアノ室で食べようよ。片付けたらすぐに行くからさ、先に行っててくれない?」
「いいですね。それでは、準備をしておきます」
 紙でざっと汚れをふき取った食器を食器洗浄機に入れる。勿体無いからと僕が買うのを拒んでいた新兵器は、僕の手を荒らしたくないと言い張る圭の独断で、2年前、我が家に仲間入りした。まあ僕もそれなりに忙しくなってきたし、使い始めてみると確かに重宝している。特にこんな時はタイミングを逃さないし、圭に気を使わせることもないし、何より、圭の手で破壊される食器の数が減った。
 でも、準備って何だ?と思いながらピアノ室に足を踏み入れて解った。壁際の天井に点々と配されたダウンライトだけが灯っていて、それもギリギリまで明るさを絞ってある。ハープで演奏されるドビュッシーのピアノ曲が静かに流れ、ロマンチックで幻想的な空間を作り出していた。
 ―――ああ、この音楽なら、深刻な気分にならなくていいかも知れない。

「今夜のきみは、こういう気分なの?」
「きみが『ご飯の後で』と約束してくれましたからね。ムード作りは僕の役目です」
 サイドテーブルに置かれたランプを点けながら圭が背中で答える。きのこのような形をしたガラスのランプは薔薇と天使の絵がいっぱいに描かれていて、灯すと全体が落ち着いたサーモンピンクに光る。その色が僕の肌を一層美しく見せる(のだそうだ。圭に言わせると)と気に入って、ヨーロッパで買ってきたものだ。柔らかな灯りを受けて満足そうに微笑む圭の横顔に僕は目顔で答えた。
 ―――うん、約束したよ。けど、それはもう少し待ってね。
 大型のカウチに腰を下ろし僕を嬉しそうに手招きした圭は、だが、僕が手にしているトレーを見た途端、怪訝な顔をした。ボヘミアンガラスの器に盛ったさくらんぼの他にシャンパンを入れたクーラー、フルート型のグラスがふたつ。
「シャンパンですか? 悠季……」
「うん。さくらんぼに良く合うって、前にきみが言ってただろ? それとも、お腹一杯で飲めない?」
「いえ、それは平気ですが……」
 圭の隣に座って、僕はコルクを抜こうとナプキンでボトルの上部を覆った。本当はポンッと飛ばすものじゃなくこうやって静かに開けるということを、圭に連れられて行ったレストランやヨーロッパでの生活で学んだ。でも、これがなかなか。コルクは固いし、溢れさせないようにするのが結構難しい。
「どれ、僕がやりましょう。指を痛めては大変です」
 四苦八苦していた僕の手からボトルを受け取り、難なくコルクを抜いてグラスに注いでくれる。まるでそのままソムリエが務まりそうなぐらい一連の動きがスマートで、見惚れた。
「はぁ〜〜、きみはホントに何から何まで……僕には勿体無いぐらいカッコいいね」
「きみ専用ですのに……心外です」
 軽く眉根を寄せて僕を見る。薄く刻まれた眉間のシワに、ちゅっと音を立てて感謝のキスをした。それから、グラスのほっそりとした足を摘んでそっと掲げ、淡い金色の液体越しに、僕専用だというこの上もなく愛しい男の端正な顔を眺める。
 上手く言えるだろうか?顔は強張っていないだろうか?
 でも今夜のこれは、圭の方から言い出せることじゃない。僕が口火を切らなければ、僕らは一生このわだかまりを抱え込んだままだ。
「何に乾杯するのですか? さくらんぼに? それとも、さくらんぼのように可愛いきみに?」
 僕に倣ってグラスを持ち上げ、艶やかな微笑を浮かべる圭の切れ長の瞳を、僕は愛しさを込めて真っ直ぐに見つめた。

「もちろん……僕たちの始まりの日に、だよ」



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