変 奏 曲 ――7年目の協奏曲――

 
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 キッチンに入ってすぐの壁にはカレンダーが掛けてある。この家に住み始めて以来、毎年同じデザインのものを買って来て同じ場所に掛けているので、定位置という以上にひとつの物が長年ずっと変わらずにそこにあるような印象だ。僕らが愛用してるのは、升目で区切られた中に日付が書かれただけのシンプルで実用的なもの。しかも、ふたり分のスケジュールを書き込む都合上、かなりの大判だ。それでもここ数年は、日によって書き込みきれないほど窮屈になることもあり、それは僕らが音楽家として頑張ってきた証のようにも思えて、僕は時々感慨に浸る。まだ昔を懐かしむような歳じゃないし音楽家としてもヨチヨチ歩きを始めたばかりもいいところだけれど、僕にとっては激動の時代と言ってもいい日々だったから、つい、そんな気分になってしまうのだ。
 実は、このカレンダーがリングで纏めてあって破り取らなくても済むのを良いことに、僕は圭に内緒で使い終わったものを納戸の奥にしまい込んでいる。日記を書く習慣のない僕にとって、感覚的にはそれに代わるものだろうか。僕らが共に歩んだ年数分だけのささやかな、言わば僕らの歴史。以前は、圭が地方公演で留守の夜など、この小さな歴史を引っ張り出して来ては眺めていた。仕事の予定に混じって僕らの様々な記念日に圭の手で書かれた赤いハートマークが、ヴァイオリンだけでは埋められない圭不在の落ち着かない気分を結構慰めてくれたものだった。今では流石に時間の余裕もないし、何よりそういった心の支えを必要とする時期は過ぎてしまったようで、ひっそりと眠っている状態だけれど。

 朝起きてくると、朝食の仕度を始める前に、まずこのカレンダーでその日の予定を確かめる。自分のはもちろん、圭の分もある程度は頭に入っているが、まあ最終確認といったところだ。黒のボールペンで書き込んであるのが圭、青で書いてあるのが僕の予定。そして、日付の横に時々現れる赤いハートマークと赤で書いたふたり一緒の予定。
とにかく記念日が大好きな僕のパートナーは、その脅威の記憶力で《初めて僕の手料理を食べた日》だの《初めて一緒に買い物に行った日》だのを覚えていて、それこそ毎日を記念日にしてしまうのではないかと僕をハラハラさせた。誕生日や結婚記念日でさえすっぽかすご亭主を持った世の奥様たちからすれば羨望の的だと思うが、毎日がハートマークで埋まったカレンダーなんてぞっとしない。しかもそれを書き込んでいるのが硬質な美貌をもつ30歳にもなる大男で、そのポーカーフェイスをデレッと崩しながらいそいそと書き込んでいるなんて、はっきり言って不気味だ。もちろん圭の気持ちは十分に理解しているつもりだし、とても嬉しく受け止めてはいる。些細な出来事を貴重なもののように覚えていてくれるのも、その日を心を込めて祝おうとしてくれるのも、僕への愛情表現であり、ふたりのことを何より大切に考えているからだと。でも、だからこそ、僕にはどうしても気になって仕方がない日があった。
―――それが今日、6月25日。



 チン、という軽やかな音を立ててトースターが焼き上がりを知らせる。皿やフォークは既にテーブルの上にスタンバイ済みだ。冷蔵庫からバターとサラダのドレッシングを出して並べ、ちょうどコンロの火を止めたところで後ろからゆったりと腰を抱かれた。バスローブ一枚を羽織っただけの身体からシャワーで温まった体温が伝わり、仄かな匂いが鼻を擽る。僕が以前に好きだと言ったコロンを圭は今でも愛用しているばかりか、ソープやシャンプーなどもすべて同じ香りで統一してしまった。その香りが圭の匂いと混じり合って世界にひとつだけの大好きな匂いになり、僕をふわっと包み込む。
「おはようございます、悠季」
「おはよう、圭…っん……くすぐったい…よ」
 首筋に顔を埋めるようにして囁かれ、つい一時間ほど前まで僕の身体を支配していた感覚が甦る。
「くすぐったいだけですか?本当に?」
 耳朶を甘噛みされて隠しようのないほど背筋が震えた。実は、夕べは疲れきっていて圭の帰りを待たずに熟睡してしまった僕は、その借りを朝から取り立てられたのだった。
 完全に目覚める前の夢と現の間を彷徨っているような時に優しく愛撫されると、僕はどうも弱い。そっと撫でられたり羽のように口づけられたり、快感の在り処をひとつひとつ手探りで確かめていくような何処までもゆったりと優しい接触が、とろんと微睡んでいる状態にピタリと嵌って、まさに夢見心地になる。緩やかに高められていく身体ごと覚醒していく、えも言われぬ幸福感。触れ合うことが目的だったのに気が付いたら身体を繋いでしまっていた、という感じの終始穏やかなモーニングセックスが僕は正直なところ結構好きで、それは圭にもしっかり見抜かれているようだった。昔の僕なら、朝の明るい光の中で抱かれるなんて、羞恥が先に立ってしまってとても楽しむどころじゃなかったけれど、人間は変わってゆくものなんだと、こんなところでも思ったりする。
 その僕の嗜好を見抜いているらしい男の手が、さっきからまるでベッドでの続きのように僕の胸や腹をゆったりと撫で回している。危うく流されそうになるのを踏み止まって、僕はその大きな手の甲を抓った。
「もう……ダメだったら、ダメっ!」
「つれないですね。さっきはあんなに情熱的に欲しがってくれたのに」
 ―――情熱的!? 欲しがった!? そりゃあ、まあ……僕もしっかり楽しんじゃったけど……でも僕は誘ってないぞ!! と思いながら文句を言ってやろうと首を捻って見上げたら、開きかけた唇を覆われて、こじ開ける必要のなかった口の中にいきなり舌が入り込んできた。それこそ情熱的に過ぎるおはようのキスに蕩かされながら、それでも息継ぎの合間になんとか抵抗を試みる。
「遅刻……する、から……」
「きみは今朝はゆっくりでしょう? 僕なら構いません」
 しゃあしゃあと言いながら僕を正面から抱き直し、腰骨の辺りにグリッと固いモノを押し付けてきて。カアーッと頬が熱くなったけれど、僕はその勢いを借りて必死に圭の胸を押し返した。
「ダメだよ……っ! 卵が、ハードボイルドになる!」
 ベーコンエッグにハードボイルドってのも変だが、火を止めたまま放ったらかしになっていたフライパンの中身が気になっていたのも事実。そして意外にも、遅刻するという言葉よりも圭には効果的だった。
 おどけた調子で「それはいただけません」なんて言いながら、ちょっと寂しそうな顔で降参と両手を上げて僕を解放してくれた。


「きみはすっかり強くなってしまって、つまらない」
 しっかり堅焼きになっていた卵をコーヒーで飲み下しながら、不機嫌丸出しの顔で圭がぼやく。僕が誘いに乗らなかったもので拗ねているらしいが、僕にだって意志の力ぐらいはある。出勤前のキッチンで、それもいい加減いい年をして、はいはいと応じる方が変だろう?しかも、ベッドで朝から一戦交えた後でのことだ。僕は甘えてくる子供を適当にあしらうようなつもりで、ちょっと意地悪く答えた。
「それだけきみに慣れたってことじゃないかな?」
「ふむ。マンネリはいけませんね。やはり僕が精進しませんと」
「圭? なんだよ、そのマンネリとか精進とかって」
「むろん、きみに満足してもらうための、新たなテクニックの研鑽と習得ですが?」
「き……きみの言う強さって、そういう意味!? 僕はね、精神的なもののことを言ったんだよ? きみと対等に渡り合える意志の強さとかさ」
「ええ、ですから根本は同じです。きみの意志の強さは筋金入りで、昔も今も僕などとても太刀打ちできません。けれど僕の愛撫に身を委ねた時だけは別ですから。つまりは、きみを夢中にさせるだけのテクニックが、僕には要求されているわけです」
 呆れた。
 サラダのレタスがフォークの先からぽろりと落っこちても、口を開いたままでポカンとしてしまったぐらい。それから、圭の言葉の意味が沁み込んでくるにつれ、悔しさと恥かしさが頬を熱くしながらじわっと頭のてっぺんまで昇って来て。つい、思ったよりも声の調子が強くなってしまった。
「きみはそんなにまでして、僕を思い通りにしたいわけ!?」
 朝の食卓で交わすには少々際どいけれど、恋人同士が駆け引きを楽しむ範囲には収まっていたはずの会話だった。サッと顔を強張らせた圭を見て、僕は、言葉で互いを愛でる罪の無い戯れ合いをひと言で壊してしまったのだと知った。
「悠……季…………すみません。そんなつもりではなかったのですが」
 俯いて力なく謝罪の言葉を呟く。圭の思ってもみなかった過敏な反応に、僕は内容の是非はともかく結果として和やかな空気を凍らせてしまったことを後悔し、迂闊な発言を後悔した。
 圭に、こんな悄然としたままで一日を過ごさせたい訳じゃない―――特に、今日は。

 テーブルを回って隣に寄り添った。固く拳を握ったままの圭の手を包むように僕の右手を重ね、左手でそっと頭を胸に抱いて、まだ湿り気の残る髪に唇を寄せる。
「ごめん……言い過ぎた」
「いいえ……いいえ悠季、僕の方こそ……」
 圭は僕の右手を持ち上げると、リングの上から薬指にキスをした。何ごとかを祈るように、ただじっと長く長く押し当てられる温もりが、胸に痛い。こめかみにキスを落として艶やかな黒髪をゆっくりと梳きながら、僕は出来るだけさり気なく、習慣になっている会話を切り出した。
「圭?今日の予定に変更はない?」 
「ええ、8時には帰れると思います。きみも変更なしですか?」
 ゆっくりと僕を見上げる目は、どこか怯えた幼子のよう。
「うん。僕の方が早いから夕飯の仕度しておくね」
「はい。楽しみです」
 笑った僕の顔に、圭はようやく安心したように頬を緩めた。それからしっかり目を合わせて、久しぶりだね、と微笑み合って。軽くキスを交わして。
 夕食を一緒に取れる日は、あまり多くはなかった。演奏会が入ればもちろんのこと、午後から夜にかけて練習や打ち合わせや、実際僕らはどうしても夜型になりがちだ。カレンダーで判っている予定を口に出して確認しあうのも、夕食に限らず年々貴重になってきた共にすごせる時間を、確実にモノにしたいという思いからだった。


 僕の方から想いを込めて行ってらっしゃいのキスをして、先に出かけていく圭を見送った。朝食の後片付けの為にキッチンに戻り、でも、僕はなんだか疲れた気分で椅子に座り込んでしまった。
 もう何年も気になっていた。いつか今日という日に時間が持てたなら圭と話をしたいと考えていて、今年はそのチャンスがありそうだと数日前から思っていて―――意識しすぎていたのだろうか?選りに選ってあんな言葉を投げつけてしまうなんて。
 壁のカレンダーを見遣る。
 7年前の今日は、圭が僕への想いを露わにし、初めてキスをし、初めて身体を重ねた日だった。
 ふたりとも忘れる筈などないのに、決してハートマークが書かれることのない日。些細な出来事も記念日にしてしまう僕らが、殆どのカップルがまず間違いなく記念日にするだろう日を、触れてはいけないもののように息を潜めて遣り過ごす。それは、あの日圭が、力ずくで僕を思い通りにしたから。そしてそのことを、多分未だに負い目に感じているから。さっきの過敏な反応も、恐らくはその所為。
 確かに、圭の行為はどう考えても正当化できるものじゃない。なにしろあの頃の僕は、圭に好意を感じるどころか嫉妬と羨望に凝り固まって憎んでさえいたのだから。
 でも、だからこそ。
 圭のあの行為が無ければ、僕らは絶対に恋人として歩み始める事はなかったし、ヴァイオリニストの守村悠季もこの世に存在しなかった。これだけは確かなことだ。今までにも何度かそれを圭に伝え、僕はその度に言った。 もう気にしていない、僕も忘れるからきみも忘れろ、と。
 でも、それは多分間違いだった。僕は圭の行為を責めることもしなければ恨み言も言わず、つまりは僕の気持ちをひと言も語らず、それで忘れるから忘れろと言われたところで、圭にしてみればおいそれと納得できる筈もないだろう。忘れることは消化することと同義ではないのだから。僕の胸の内にどんな本心が封じられているのかと怯え、それを想像し、推理し、事あるごとに僕らの関係を脅かすのではないかと恐れ―――そんな圭を感じる度に、僕もまた心に新たな影が落ちるのを感じた。
 僕が傷つくことを異常なまでに恐れるきみ。どんな時も僕のガーディアンであろうとするきみ。僕にはそれが、僕への愛情と執着だけでなく、きみが贖罪のために生涯に亘って自分に課した苦行のように思えてならない。きみの中に僕に対する負い目がある限り、僕らは何時まで経っても対等の立場で愛し合い励まし合い支え合う、本当の伴侶になることなどできないだろう。昔の僕が、きみに対して卑屈にならずに居られなかったように。
 圭、今夜きみに話そう。
 僕は、僕の手できみの重荷を取り除こうとか、きみを救いたいと思っているわけじゃない。きみにはきみの考えがあり、それに干渉するつもりはない。ただ、僕の思うところを余すことなくきみに伝えたいと思うだけだ。それを聞いて、きみにも考えてもらいたいだけだ。
 僕らが生涯固く手を取り合って、きちんと前を向いて歩いていくために必要なことを。



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