うつらうつらと微睡みの中で、遠く雨の音を聞いていた。
 ああ、今日は雨なんだ。道理で空気がひんやりしているなどと思いながら何度か寝返りをうち、ようやく目が覚めた時には、圭はもうベッドにいなかった。僕の寝起きが悪いのは今に始まったことじゃないが、時計を見ると、どうやら目覚ましが鳴ったのにも気付かなかったらしい。
 途端に現実が押寄せてくる。朝食の支度!それに今朝は圭と一緒に出かけないと間に合わない!慌てて起き上がろうとした身体に鈍い痛みを覚えて、僕は呻きながら昨夜のことを思い出した。
 昨夜は―――酔いに任せてピアノ室であのまま。寝室に上がってからも、何度も。
 所々記憶が怪しい部分もあるけれど、覚えているだけでも十分赤面ものだった。ここに圭がいなくて良かったなどと思いながら、とにかくまずはシャワーを浴びようと、気だるい身体に鞭打ってベッドを降りた。

 暖かい雨に包まれる。湯気で薄く曇った鏡の中には、圭が刻んだ印をそこかしこに散らした白くて貧弱な、いつもと変わらぬ僕の身体。けれど昨日までの僕とは違うように思えてしまうのは、やっぱり単なる感傷だろうか?そんなことを考えていたら、昨夜の光景が鮮やかにフラッシュバックした。
 僕らの小さな歴史に書き加えられた新しい愛のかたち。
 汗を纏って光る均整の取れた美しい肉体、快感に眉根を寄せ扇情的に歪む美貌、甘く掠れたバリトンの喘ぎ。指先が、唇が、僕の身体が、ひとつひとつの感触を思い出す。身体が疼き頬が熱くなるのを感じて全開にしたシャワーで懸命に諌めながら、僕は胸の内に湧き上がる圭への更なる愛しさを、心地良く噛み締めていた。


 その歌声に気付いたのは、手早く身支度を整えて廊下に出た時のこと。ざあざあと降りしきる雨音をバックに朗々と響く《オー・ソレ・ミオ》。階段の踊り場を回ったところで歌は唐突に途切れ、代わってバリトンが晴れやかに僕の名を呼んだ。
「悠季!」
 エプロン姿のディーヴォは、まるで満足のいく舞台を終えて聴衆に向かうかのように両手を広げ、満面の笑みを浮かべて階段の下に立っていた。照れ臭くて顔を隠したくても、下から見上げられていたのでは隠しようがない。軋む身体を宥めながら小走りに階段を下りて、でも、あと数段というところで腕の中に抱き込まれてしまった。
「悠季、おはようございます」
「……おはよう、圭。寝坊してごめん」
「なんの。朝食が出来たので起こしに行こうと思ったところでした」
 グッド・タイミングです、と同じ高さで愛しげに僕を見つめる眼差し。眩しさに思わず目を伏せると熱い唇が押し当てられた。今朝のおはようのキスは、貪るような性急さもなく、激情をぶつけ合うでもなく、昨夜の余韻を愉しむようにゆったりと穏やか。温かく満ち足りた悦びが通い合う。
「身体は辛くないですか?」
 問われて、また昨夜の光景が目に浮かんで。恥かしさに、僕は目を伏せたまま答えた。
「うん……きみこそ大丈夫かい? それと……その……ごめんね?」
「僕なら平気です。 悠季、なぜ謝るのですか?」
「だって……」
「きみは凛々しくて何時にも増して美しくて、とても素敵でしたよ。今朝の僕は世界一幸福な男です。きみの感想は……僕はどうでしたか?」
 抱きしめられたままで逃げ場もなく、顔を覗き込まれてそんな風に尋ねられたって、いったい何と答えていいのか……。僕は真っ赤になっているだろう顔で頷くのが精一杯で、堪らなくなって話題をすり替えた。
「こんな雨の日に……選曲ミスだよ」
 圭はふっと小さく笑うと、抱いた僕の背中を優しく撫でながら言った。
「選曲ミスではありませんよ。きみが僕に向けてくれた愛、僕たちの未来に向けてくれた愛に、僕はとても感動しましたし、心から感謝しています。お陰で僕の心の中は雲ひとつ無く晴れ渡っていて、真っ青な空にきみという太陽が燦々と輝いている、まさにそんな気分なんです」
 気障なセリフを真顔で言って相変わらず恥かしいヤツ、と思ったけれど。僕の想いを圭はちゃんと受け取ってくれたのだと。そして、こんなに晴れやかに笑ってくれたのだと。それが何よりも嬉しくて、僕はさっき言葉に出来なかった分も想いを込めてありがとうと囁き、もう一度圭の唇に口づけた。

「さあ、食事にしましょう。急がないと遅刻ですよ」
「わっ、ホントだ!」


 その朝、僕がいつもの習慣で目を遣ったキッチンのカレンダーには、僕らの古くて新しい記念日が、早速圭の手で書き加えられていた。
 6月25日の日付の横に赤いハートマーク。
 それから――― 『愛をもらった日』 と。




FINE
2006/1/26

長々とすみません。最後までお付き合いくださいましてありがとうございましたvv

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