協 奏 曲

   



 メンデルスゾーンのコンチェルトをさらうのだろうと思っていたが、聴こえて来たのは《歌の翼に》だった。晩春の川べりで僕を瞬く間に虜にしたあの夜、きみが奏でていた曲のひとつ。食事をしている僕のために、明るく軽やかな曲を選んでくれたのだろうか?いや、それは自惚れが過ぎると言うものだ。指慣らしに違いない。けれど、お人好しなほどに他人を思い遣れるきみだから。
 僕をますます増長させるように温かで耳に優しい小品が次々に奏でられ、僕はひと口ごとに噛み締めるように食事をとり、時にはそのゆっくりとした箸使いをも止めて澄んだ音色に抱かれた。やがて曲はコンチェルトに変わり、甘く切ない印象的な主題が流れ始めると、僕はこれまで以上に聴く体勢をとって耳を傾けた。練習が終わった後で、恐らくきみはコンダクターとしての僕に意見を求め、対話を望むだろうから。きみは、気に入らない箇所を何度も繰り返すヴァイオリンとの対話を始めたが、それはじっくり聴く間もないほど短時間で終わってしまった。

 音色が途絶えた部屋の空気がすうっと彩りを失っていく中、パタンとケースを閉じる音に続いてきみの軽やかな足音が近付いてくる。開いたドアの隙間から身体半分だけ見せたきみが、覗き込むように僕を見る。
「どうされました?僕が聴いていては、やはり集中できませんか?」
「あ、ううん、そうじゃないんだ。えーっと……僕もお茶をもらってもいいかな―――って、あれ? きみ、ビールを飲んでたの?」
「ええ。きみも一杯いかがですか? あ、練習中には拙いですかね?それとも怪我に障るでしょうか? お茶が良ければすぐに淹れますが」
 箸を置いて立ち上がろうとした僕を止め、借りるよと声をかけて流しで手を洗う。怪我した指が濡れないように庇いながら洗う姿が、如何にも不自由な様子で痛々しい。
「もしや、傷が痛むのですか!?弾くのが辛いほどに!?」
 勢い込んで尋ねた僕に答えを返さないまま、きみは先ほどの椅子にストンと腰を下ろした。片手で頬杖をついて小首を傾げながら僕を見る表情は、どこか楽しそうな思案顔。
「大袈裟だよ」
「はい?」
「こんなの怪我のうちに入らない。痛みよりも指使いでね、ちょっと気になる程度」
「はい……」
「だから今夜はもうおしまい。……僕もビールもらうね?」
「はい!」
 食器棚からビールグラスを持ってくるきみ。いそいそと冷蔵庫から冷えた缶を取り出す僕。白い泡がシュワシュワと陽気に盛り上がるグラスを、僕たちは会話でもさせるようにコツンと合わせた。

「ねえ……これって本当に一人前?」
 寿司折を呆れ顔で眺めながらきみが問う。僕の思惑はバレてしまっただろうか?
「空腹だったものですから、つい沢山買ってしまいまして」
「ああ、それってあるある!お腹を空かして買い物に行っちゃいけないんだよ。何を見ても美味そうに思えてさ。余計なものまで買ってしまうんだ」
 子供のように笑いながら、まるでベテラン主婦のような発言をする。
「でもその割に、減ってないね」
 今度こそドキリとした。もう誤魔化しは効かないだろう。
「きみの演奏に聴き惚れながらゆっくり食べていたら、なんだか胸がいっぱいになりまして」
 上目遣いに僕を睨むきみは、ビールの所為だけじゃなく頬を染めていて。そのあまりにも可愛い表情に、僕はビールの所為じゃない酩酊感に襲われる。
「このままだと食べ残してしまいそうです。良ければ手伝っていただけませんか?」
 きみの前に新しい割り箸を置いて頼み込むと、またしても楽しげな思案顔。
「う〜〜ん、どうしよう。いただこうかな? 他人が食べてるのを見ると美味しそうだなぁって思うのは、食い意地が張っているんだよな、きっと」
 照れ臭そうに笑いながら言葉を繋ぐきみは、アルコールの所為か少しずつ緊張が解れて饒舌になり、とても魅力的で。僕も楽しくて、きみとこんな時間を持てたことが嬉しくて堪らなくて。きみの方へと近付けた寿司折から、手掴みでぱくっと咥えた時の悪戯っ子のような眼差しが。きれいな唇が、はみ出した海老の尻尾を揺らすさままでもが。堪らなく愛しくて、くすくすと零れる笑みが止まらない。
「手でいきますか。きみは通ですね」
「行儀が悪いだけだったりしてね」
「まさか。江戸時代は手掴みで立ち食いしたそうですよ。由緒ある日本のファーストフードです」
「へぇ〜、そうなんだ。でも手掴みだとパクパク食べれちゃうし、思ったより沢山入ると思わないか?―――ああ、でもこんな時間に大食いしたら、太るよな」
「きみはそんなにスリムなのですから、あと5キロや10キロ太ったところで、何の問題もありませんよ」
 一瞬の間をおき、表情を凍らせたきみの顔が鮮やかに染まる。浮かれる余りとんでもない失言をしてしまったと気付いたのは、きみがすっかり顔を伏せてしまってからだった。

 一糸纏わぬ眩いばかりのきみの身体を、僕はこの腕に二度抱きしめた。
 一度目は僕の欲望を果たす為だけに、強引に。二度目はきみの快復だけを祈って、ただひたすら静かに。誇り高いきみを赤面させ俯かせたものの正体は、羞恥よりも恐らくは屈辱の記憶。ぱっくりと開いたままの傷口を、僕は無神経にも更に抉ってしまったのだ。とても顔向けができなくて、テーブルの上で組んだ手をじっと見つめる。このぎこちなく滞ってしまった空気を、どう回復させればいいのかも判らない。
 自分の未熟さを、僕はきみと知り合ってから幾度も自覚した。年相応の経験を積んで来たつもりで、その実中身は空っぽの、僕が数をこなした恋愛はすべてがラブ・アフェア。普通の人付き合いに至っては本音の欠片も見せないポーカーフェイスで通し―――僕はそれこそ物心ついてからこの歳まで仮面を被ったまま、ただの一度もそれを取って他者と直に関わり合うことはなかったのだと。
 そうしてきみに出逢って初めて全身全霊で誰かを求めるという感情を知り、けれどもそれを相手に正しく伝える術を知らないのだった。


 失言だったことだけでも謝罪せねばと口を開きかけた時、ビールが注がれる音に混じって、きみの柔らかな声が届いた。
「そうだよなぁ。僕は子供の頃からずっと痩せっぽちでさ、もっと食べて太れって、よく母さんにも言われたんだ。―――あ、ねえ、ビール終わっちゃったよ?」
「あ……ええ、まだ冷えたのがありますよ」
 きみに背を向けて冷蔵庫からビールを取り出しながら、僕は込み上げてくるものを懸命に堪えていた。不覚にも涙が零れそうで、振り向けない。後ろ手にビールをテーブルに置き、そのまま流しの前に移動して引き出しからハンドタオルを取り出し―――。
「桐ノ院? どうかしたの?」
「…………いえ、僕も手掴みでいこうと思いまして。今、きみの分もおしぼりを用意します」
 僕を唾棄すべき輩と切り捨てて一切の私的な関係を絶ってしまうことも可能なのに、きみは慈愛と寛容を分け与え許そうと努力してくれるばかりか、こうして救ってさえくれる。友達としての程好い関係をつくり、維持しようと懸命になってくれている。だから僕はずっと悩んでいた。どうしても捨てきれないきみへの想いに蓋をし厳重に鍵を掛けてでも、きみの望みに従って友情を築くのが一番いい形なのかも知れないと。たとえ僕がどんなに苦しくても、だ。
 だが僕は今、それは間違いだと気づいてしまった。僕たちが友人でいる限り、きみの傷や痛みは、どれほど時間が経とうとも決して癒えることはないのだと。

 例えば僕らがこの先、生涯付き合っていける親友になれたとしても、傷は禁忌として互いの心に厳然と存在し続ける。友人の間には不要な肉体関係、ましてそれが暴力によるものだったとなれば尚更だ。どう解釈しようと汚点にしか過ぎず、きみにとっては堪らない屈辱の記憶であり、それを忘れるように封印してしまう以外にない。だが忘れようと意識する限り、本当に忘れられる事など有り得ないし、むしろその度に記憶を新たにする結果になる。僕たちは友人で居る限り、生涯痛みを抱えたままそれを笑顔の下に包み隠し、互いの傷口に触れてしまわないようにと神経を張りつめ、まるで薄氷の上を踏むように怯えながら付き合っていくしかないのだ。
 だが、僕が望むように恋人となることが叶うなら―――。
 傷は同様に消えなくとも、恋人たちにとって愛の行為は禁忌ではなく当然の足跡だ。きみは納得がいくまで何度でも僕の暴挙に対して堂々と詰る機会が持て、そのこと自体も恋人としての地歩を固めていく、いわば僕たちふたりの歴史の一部になるだろう。そして、もしも長い年月寄り添って行けたなら、痛みもわだかまりもやがて薄れて消え、傷さえも変容する日が来るかもしれない。忌まわしい事件の日が僕たちの始まりの日として意味合いを変え、ほろ苦さや気恥ずかしさと共に思い返す、懐かしいひとコマになる―――そんな日が。
 尤も、きみが僕を愛し許してくれたとしても、僕は負い目を感じ続けるだろうが、それは友人と恋人、いずれの場合も同様だ。僕の罪も、罪の意識も消えることはないし、それを背負い続けるのは僕に科された当然の罰だと思っている。そして盗人猛々しいと言われようとも、僕はきみに対する責任を全うし、きみがこの先抱える苦痛を最小限に止める為のこれが最良の途だと信じ、この恋をを成就させたいと願う。決してそれを諦めるつもりはない、と心に決めたのだった。

「――――――ノ院、おい、桐ノ院ったら! 何やってるんだよ!」
 横合いから伸びてきた手が蛇口を閉める。水音が途切れ、きみの叱咤する声に呼び戻された。
「水出しっぱなしで勿体無いだろ!? 気分でも悪いのか?」
「……すみません。ぼんやりしてしまいました」
「酔った、なんてことないよな?」
「はあ。まあ少々いい気分ではありますが」
 ―――ええ。僕は今、強かに酔っています。きみと出逢い、きみの人生に関われた幸運に。
「まさかと思うけど……水音がシンフォニーに聞こえて、いきなりトリップしてたなんて言わないだろうね?」
「いえ、そのまさかです。コンチェルトについて思いを廻らせていました」
―――きみと僕のふたりで、生涯かけて奏でていくコンチェルトについてです。
「少しは時と場所を考えろよな? で、我らがフジミの天才コンダクターは何を考えていたんだい?」
「それはまだもう少し。でも鍵を握るのは守村さん、きみですよ」
「うっ…………そりゃまあそうだろうけど。でも面と向かってそんなプレッシャーをかけないでくれよ。僕はそれでなくても小心者で、今だってホントに僕なんかがソロをやれるんだろうかって不安なんだからさ」
「では僕がおまじないをかけて差し上げましょう。手を出してください」
「へ?」
 呆然としているきみの左手をとり、僕は自分の重ねた両手の間に恭しく挟む。咄嗟に手を引こうと身体を強張らせたきみに、微笑んで静かに告げた。
「僕を信用してください。手当てと言うでしょう?きみの傷が早く癒えるように。そして思う存分力を発揮できるように。大丈夫です。僕の精一杯のパワーを送りますから」
 聖書も指輪もなく、心の中でそっと呟くだけではあったが、これは僕にとって誓いの儀式だった。
 どんな時もきみを受け止め、愛し続け、きみが心を開いてくれるまで決して諦めず、音楽に生きる同志として手を携え、寄り添い励まし合って生涯を共に歩いていきたいと。
 二重瞼の大きな目をさらに大きくし、頬を染めて僕を見上げているきみの薄く開いた唇に、僕は微笑みで誓いのキスを贈る。それから、自分に言い聞かせるようにもう一度強く念じて、きみの手をそっと開放した。




FINE
2006/1/10

フジミ時間1994年9月初旬、「諸君の音が聞こえません」の少し前、という設定。
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