協 奏 曲

   


 こんなに遅くなるなんて!やはり迂闊だった!
 小走りに駅へ向かう道すがらで、ノロノロと鈍足に感じる電車の中で。幾度時計を確かめながら胸の中で吐き捨てたことだろう。欲しい本を取ったらすぐに引き上げるつもりで、事前に様子を確認せずに成城に寄ったのは、まったくもって自分の油断と怠慢としか言えなかった。訪れた際の常として祖父のご機嫌伺いをし、伊沢も交えて暫しの会話を楽しんだまでは良かったが、そのあと母に捕まり、父に捕まり……この始末だ。
 重く圧し掛かる疲労感を振り払えない。たかが肉親と顔を合わせるだけのことなのに、あの家を忌避する気持ちは強くなる一方だ。それは多分、僕が僕で居られる場所を見つけてしまったからなのだろう。僅か半年ばかり住んだだけで、生まれ育った家よりもよほど家だと感じるあの場所へ、一刻も早く富士見町のマンションへ帰り着きたかった。そこでは、僕がこの世の何ものよりも愛して止まないきみが、僕の惚れ込んだ美しい音色を奏でているはずだ。今頃はもう殺風景なあの部屋が、新緑や清流を思わせる澄んだ音色と清涼な空気に満たされていることだろう。
 富士見町の駅に降り立つと、電車の中で思い決めていた通り一目散に寿司屋へ飛び込んだ。時刻は既に午後9時半をまわっている。外で食事をとるのはどうにも時間が惜しい。きみはもう済ませただろうか?できれば一緒に食べたいと考え、ふたりで分けてもそこそこの、僕ひとりでもどうにか片付けられる量の折詰を買い求め、残り僅かとなった家路を急ぐ。
 今は抱きしめることも叶わぬきみの―――きみの紡ぎ出す穏やかな空間に抱かれるために。



 途中の路地から見上げた7階の僕の部屋には灯りが点いていた。6階のきみの窓は暗い。今夜も練習に来てくれているのだと思うと嬉しくて、僕は全身できみの記憶を手繰り始める。
 会いたくて。早くきみの顔が見たくて! ふわりと浮かんだきみのイメージを追って、逸る心のままに階段を駆け上がった。

 ノブに手をかけたちょうどその時、勢いよくドアが内側から開いた。咄嗟にかわして直撃を免れた胸に飛び込んで来たしなやかな身体を抱き止める。突然の事とは言え、僕はそれがきみだと確信していたし、疲れ果てた心身に褒美のように与えられた僥倖だと感謝したのだが。改めて腕の中のきみを見遣ったとき、今度は少なからず狼狽した。
「守村さん? どうしたんです!?」
 何が起きたのか測りかねていたきみは、僕に抱き止められていると解って全身を強張らせた。あっと声を上げたままで動きを止めたきみの表情。半開きになった口元に、たった今まで咥えていたらしい指が添えられている。その桜色の唇の上に濡れて滲んだ深緋色。きみの唾液で光る白い指先にも同じ深緋の色。
「指を!? 怪我したのですか!?」
 まだ唇の傍を彷徨っているきみの手を掴んで引き寄せ、一刻も早くこの目で怪我の具合を確かめたかったが、腕の中でますます固くなる身体と怯えたような目の色に辛うじて衝動を押さえ込み、僕はきみの背を抱いていた腕を静かに解いた。ふっと息を吐いたきみの肩から力が抜ける。
「ああ……桐ノ院…………おかえり」
「ただいま帰りました。指を、どうされたのですか?見せてください!」
「あ……これ?怪我じゃないよ。ただのささくれ」
 ほんの僅かの間だけ傷を僕の方に向けてから、気まずそうに手を下ろす。わざわざ見せるほどのものじゃないのにと言いたげに僕をちらりと見上げると、きみははにかんで目を逸らした。
「絆創膏を、取りに戻ろうと思ったんだ」
「そうでしたか……。それならここにもあります。中へどうぞ」
 酷い怪我ではないと知って肩の力が抜けると、現金なことに当初の欲望が頭を擡げてきた。
 遠慮で、羞恥で、あるいは恐怖で。きみが頑なにこの場を去ってしまわないように。今暫くでいいから留まって欲しい、どうか拒まないでくれと願いながら、僕はドアの隙間にさり気なく立ち塞がる。僕はもう二度ときみの自由を侵すつもりはないし、きみは二本の足でいつでも此処から出て行ける。けれども今夜はどうしても、この重苦しい気分をきみの紡ぎ出す世界で癒して欲しかった。
 素直に頷いてアトリエに戻って行くきみの姿に心から感謝しながらも、僕はその資格も持たない身で、きみの寛容に甘え慰めてもらう疚しさを覚えずにはいられなかった。


 ベッドとオーディオしかないこの部屋にソファーを置こうかと思い始めたのは、いつの頃だったろう。例えばきみが練習に訪れた時、その合間に気持ちよく身体を休めることが出来るように。例えば僕ときみが同じ時間を共有する時、互いに平穏でいられる距離を保つことが出来るように。
 思いついた時に買っておけば良かったと舌打ちしながら、僕は仕方なくきみをキッチンへと誘った。僕の手で手当てをさせて貰うには、きみが不安を感じるだろう床や、況してや未だ恐怖の対象であろうベッドなどには座らせる訳にいかない。テーブルに固く隔てられた距離は僕には切なくとも、きみには安寧をもたらす筈だ。自戒を込めた僕の行動は、誠意の表れとしてきみに伝わるだろうか?
「今、救急箱を持ってきます。どうぞ座っていてください」
「うん、ありがとう」
 きみの落ち着いた表情を視界の隅に捉えながら流しで手を洗い、キャビンの奥から救急箱を取って返し。僕は以前何かで読んだ心理学の話をふと思い出して、きみの斜め向かいの椅子に座った。
 座席の位置が人間心理に及ぼす影響について語られていたその説は、当時の僕には取るに足らないというよりも眉唾ものに近かったのだが。曰く、正面の席は緊張感が持続するため、礼節を重んじる関係やビジネスに向く。隣の席は、心を許し合い好意を寄せ合う、ごく親しい者同士で占めるもの。そして斜め向かいは、表情が活き活きと伝わり会話が弾むという、友好を深めたい間柄に最適の場所。
 信憑性も判らない説に拠り所を求め、きみと僕との未来に儚い望みを託すほど、今の僕は恋に囚われた滑稽で非力な男だった。
 そう。今はこれ以上を望むべくもないが―――いつの日にかきみと並んで。
 肩が触れ、温もりが伝わるほどに、きみの隣へ。

「消毒もしておきましょう。万が一にも化膿しないように」
「そんな、大袈裟だよ」
「いえ、指先は日常いろんな物に触れますからね。細菌が入りやすいです。それに―――きみは僕の大切なヴァイオリニストですから」
 音楽で結ばれた友情を望むきみに、今の僕が出来る精一杯の告白。
 僕の想いを知ってなお友情の誓いを懸命に信じようとしてくれるきみを、僕はこうして折に触れ苦しめているに違いない。僕の激情がいつ決壊するかと常に怯えながらそれでも傍にいてくれるきみに、僕はひたすら身を慎んで深い感謝だけを捧げるべきなのかも知れない。けれども、もう今にも奔流となって溢れ出しそうなこの想いを、小さな隙間から少しずつ逃すことを許して欲しい。シャンパンのコルクが音高く飛び出すが如く、逃げ場を失った僕の劣情が、再びきみに向けて暴発することのないように。
「あ……その……自分で、出来るからさ」
 頬を染め、睫毛を伏せていたきみは、意を決したように言うと、慌てて僕の手から消毒薬を奪おうとした。微かに震えるその手をやんわりと押し止めて僕は頭を振る。
「片手ではやり難いです。僕に、任せてもらえませんか?」
 僕はなんと狡猾なのだろう。きみが他人から懇願されることにすこぶる弱いと知っていて、その優しさを利用する。支配者たるコンダクターの物言いを捨て、きみへの恋に身を窶し、憐れに身悶える情けない男の顔で希う。
 おずおずと差し出されたきみの白い手は、僕にとって宛ら飢えに苦しむ者に分け与えられた一欠片の柔らかなパン。僕は押し戴くようにその幸福を受け止めた。

 細い指の先は、その美しさに不似合いなほど硬く平らで、艶やかな桜貝の爪は限界まで短く丁寧に整えられて。きみの手は、ヴァイオリンに注ぐ真摯な愛情を物語っている。左手薬指の爪の生え際に口を開けた小さくて深い亀裂を、僕は出来る限り優しく慎重に拭き清めた。
「大丈夫ですか?痛い?」
「ぅっ……んっ、平気……っ」
 華奢な手が僕の手の中でぴくりと跳ね、優美な眉が顰められる度に、僕はきみと一緒に息を詰める。きみの見るもの、感じるもの、たとえそれが痛みであっても共に感じていたいと願い、あの日僕がきみに一方的に与えた痛みを思う。きみの痛みを思い遣ることも労わることも知らなかった、傲慢で残虐な僕を思う。そして、恐らくは今でもきみの心の中で生々しく口を開いたままの傷口を思い、丁寧に傷薬を塗り込め、小さな絆創膏で覆った。
「ありがとう」
「いえ、どういたしまして。あ、守村さん……ここ」
 きみの唇に残る血の痕を、先ほどから口づけて舐め取りたいという衝動に耐えていた。現実にはこの指で触れて教えることさえ憚られるそれを、僕は自分の唇の同じ場所を指し示して伝える。首を傾げて見ていたきみは一層頬を染めると俯いて、柔らかな唇を手の甲で無造作に擦った。それから躊躇いがちに顔を上げ、赤みの増した唇を僕の前に惜しげもなく晒して無邪気に問いかける。
「取れた?」
「いえ、まだ……乾いてしまっているようですね。今、濡れたタオルを」
「あ、いいよ!こんなの」
 ―――舐めれば済むから。
 何度も出入りする赤い舌と、まるで紅を差したように濡れて艶めく唇を見ながら、僕は体内を駆け巡る甘い疼きに息を殺して耐えていた。
 無知ゆえの残酷さを振り撒くきみ。性愛の駆け引きやセオリーどころか、身を焦がす恋情さえも知らないのだろうきみ。ピュアな美しさはそのままに、きみの心に僕への狂おしいほどの想いを、いつの日か植えつけることが出来るだろうか?僕は、荒れ狂う体内の熱を細く吐き出す息に混ぜて密かに逃しながら、目の前で無心に曲げ伸ばしして動き具合を確かめる、きみの指を見ていた。心臓に直結するという所以で永遠の愛を誓うリングをはめる指に、僕がこの手で巻いた絆創膏を見ていた。


「寿司を買って来ました。きみも一緒に摘みませんか? 初めての店なので、味のほどはわかりませんが」
 折詰の入った袋を引き寄せながら、僕は強請りがましく聞こえないように問いかける。
「夕飯かい?」
「はい。たまにはテイクアウトもいいかと」
「そうだね。でも、せっかくだけど、僕はもう済ませたから……」
「そうですか。では、お茶だけでもいかがですか?」
「うん……ありがと。今はいいよ」
 壁の時計を見上げるきみに倣い、僕も時計に目を遣った。フジミの練習日でもない今日、きみはとっくに夕食を終えていて当たり前だった。期待する方がおかしい。落胆するのはもっと間違っている。けれど次の瞬間、僕はその葛藤さえも忘れた。
「今日は遅かったんだね」
 僕の帰宅時間を気に留めていてくれたのだろうか?それも今日だけではなく!?
「実家に用があって行っていたものですから」
「そう……。お疲れさま」
 僕の家の事情を知らないきみは、単なる社交辞令として言ってくれたに過ぎない。けれども、心底くたびれてきみの救いの手を求めていた僕にとって、そのひと言はあまりにも温かく心に沁みた。まろやかなテノールに乗せて告げられた労いは、鬱々とした闇を瞬く間に晴らし、僕を奈落の底から引き上げ鮮やかにとき放つ。 ありがとうと言うのもなんだか可笑しなものだと思い、けれどきみにこの感謝と喜びを伝えたくて、僕は精一杯微笑んだ。ポーカーフェイスに凝り固まった筋肉では、上手く笑えたかどうか怪しいものだけれど。

 きみが再び時計に目を遣る。それから僕の顔を見て言い辛そうにするので、僕にはきみの言いたいことが判ってしまった。
「今日はもう終わりですか?練習なさるのでしたら、どうぞご遠慮なく」
「もう少しだけ、いいかな? きみが食事してるのに……ひとりで放っておいて悪いけど」
「ありがとうございます。でも、どうぞお気遣いなく。ひとり暮らしの身には別に珍しいことでもないでしょう?きみも」
「あ…はははっ……そうだよねぇ。変なこと言っちゃったな。ほら、ご飯ってさ、大勢で食べる方が美味しいじゃないか?だから、つい……」
 愛情に溢れた家族の中で大切に育まれたのだろうきみと違い、僕にとって大勢での食事は苦痛でしかなく、ひとりの食事は何の感情も呼び覚まさないものだった。けれども、あの日きみが―――同居生活最後の朝、このキッチンできみと一緒に作った朝食のテーブルを囲んだ時、その喜びを教えてくれた。
「ええ、そうですね。でも、きみのヴァイオリンを聴きながら食べるのは、最高の贅沢ですよ」
「またまたぁ〜!でも、それじゃお言葉に甘えようかな?もう少し弾きたい気分なんだ」
「はい、僕からもお願いします。あ、どうぞそのドアは開けておいてください」
「消化不良になっても知らないぞ?」
 きみは悪戯っぽく笑いながら、僕が頼んだ通りにドアを半分開けたままでアトリエに戻って行った。




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