天使が紡ぐ愛の歌


「二十八歳の誕生日、おめでとう」
 頬にチュッとキスしてくれながら悠季は花束を差し出した。
 ごく淡いピンクのバラにカスミソウがふんだんに添えられた、何とも優しい印象の花束だ。僕はそれを両手で受け取り、胸に抱いたまま暫し呆然と悠季の顔を見つめてしまった。悠季から花をもらうのは初めてのことで、彼がこうした(悠季の言葉を借りるならば、気障な)演出で祝ってくれるとはまったく予想外の嬉しい驚きだったからだ。だが、それと同時に、幾ばくかのほろ苦い思いを噛みしめてもいた。二度の経験から、バラの花束はどうやら僕にとって鬼門であるらしいと感じていたからだ。
 一度目は、昔の悪友たちの乱入で台無しにされた、悠季の誕生祝を兼ねた聖バレンタインの夜のこと。恥じ入るばかりの過去の愚行を悠季に告白する破目になったあの時、思い返せば二度と赤いバラは買わないと心に決めたはずだったのだ。それなのに僕は、悠季との共演が決まった夜に浮かれるあまりその決心を忘れ、大きな赤バラの花束を買い込んで帰宅し―――過去の教訓を活かせなかった僕がその後どんな状況に追い込まれたかは、改めて口にするのも辛い。
 もしあの花束がなかったなら、事態はもう少しマシな展開を見せたのではないか、とは後に思ったことだった。むろん、僕の愚かさが我が身に返った結果の危機であり、花に責任を転嫁するつもりなどない。しかも、今夜悠季が贈ってくれたのは赤いバラではなく、彼の人柄が滲み出たような優しいピンク色。だが、同じバラの花束だというだけで、僕は情けなくも不安を掻き立てられてしまう。
 愛していると熱っぽく囁きながら僕を貪り、ブリリアントのコン・マスとして僕の至らぬ部分を見事にフォローしてみせた悠季。そうした愛情と誠意溢れる態度で僕を赦すと告げてくれた彼の真意を決して疑っている訳ではないのだが。あれから半年が過ぎた今も、僕はあの時の、悠季の愛を失いかけた血も凍るような恐怖の記憶を、未だ拭いきれずにいた。
 
「そんなに意外? 僕が花を贈るなんて似合わないかな?」
 皮肉な口調で訊ねられて、まだひと言の礼も言っていないことに気づいた。
「ああ、いえ、すみません。感激で胸がいっぱいで、言葉を失くしてしまいました。ありがとうございます」
 悠季のすべらかな頬に感謝のキスを返す。その頬にからかい笑みを浮かべて、悠季は言った。
「花なんてもらい慣れてるだろうに」
「きみからいただくのは初めてですよ。嬉しいです、とても」
「ふふ、きみは何かっていうと花をくれるからさ。花を贈るのってどんな気分なんだろうって、ちょっと試させてもらった」
「で、いかがでしたか?」
「きみのビックリ顔が見れたのは楽しかったけどね、花屋で買う時がみょうに照れくさい。自分の顔がにやけてるだろうと思うと、どうにも落ち着かなかった」
「おやおや。ならば店員のほうも、この素敵な男性は誰にプレゼントするのだろうと興味津々だったことでしょう」
「それはどうかな? でも訊いてくれたら、ちゃんと答えたのにね」
「……なんと?」
 訊ねた声は、知らず緊張していたのか掠れてしまい、悠季にも気づかれてしまったようだった。悠季は俯いてクッと声を殺して笑い、それから悪戯っぽい目で僕を見上げた。
「ナイショ」
 意地悪く発したひと言はまるで小悪魔の所業。かと思えばコロッと口調を変えて、ピンクのバラを指先で突っつきながら言う。
「プレゼントはこれしか用意してないんだ。だから後は、きみのお望みに応えるから」
 それは、十分に『誘い』ととれるセリフであり、仮に悠季にそのつもりが無かったとしても、過去の僕なら即座に彼をベッドに連れ込んだに違いない。だが、事も無げに告げた悠季の様子からは、照れも媚も感じ取れず、僕は二の足を踏んだ。
「あー、それではピアノ室へ」
「久しぶりに合奏でもする?」
「……いえ、きみのヴァイオリンを聴かせていただけますか?」
「いいよ」
 悠季は僕を流し見て、さも可笑しそうにくすりと笑った。


 ヴァイオリンを収めてある棚の前で、悠季は少し迷ってからグァルネリを取り出した。彼がそれこそ目の中に入れても痛くないほど可愛がっている愛息子のくさなぎは、例えて言うならまだ一人前には程遠い少年で、リサイタリストとしては力不足だと判断したのだろう。時間の許す限りくさなぎを弾きたがっている悠季の気持ちを思うと「どうぞ、くさなぎで」と言いたいところだったが、僕は悠季の心遣いを素直に受け取ることにしてソファに腰を落ち着け、膝の上に花束を置いた。悠季はピアノの横に立ち位置を決めて手早く調弦を終え、短い音階練習に続けてフランクのソナタを弾き始めた。たぶん指慣らしのつもりなのだろうが、近頃よく耳にするから、生徒の誰かの課題曲にでもなっているのかも知れない。
 すらりと背筋の伸びた悠季の立ち姿は本当に美しい。愛しむようにヴァイオリンに頬を寄せ、軽く目を閉じた横顔は仄かに笑んでいる。この上なく幸福そうなその姿からは、音楽とヴァイオリンとに向けられた尽きせぬ愛情がひしひしと伝わってくる。今も昔も、少しも冷めることのないその情熱に比べると、僕らの愛は随分と変容したように思えてしまい、些かならず胸の痛みを覚えた。悠季が僕に向けてくれていた愛情や信頼や尊敬を、僕はもう昔のままに取り戻すことは出来ないのかも知れない。
 そんなことをつらつらと考えていた所為で、どうやら反応が遅れてしまったらしい。ヴァイオリンの音はいつの間にか止んでいて、悠季が苛立ったように僕を呼んでいた。
「けーい! 圭ったらッ!」
「すみません、何でしょう?」
 悠季は一瞬ムッと顰めた顔を溜息で解き、呑み込みの悪い生徒に教え諭す口調で言った。
「だからっ、準備出来たからリクエストは?って訊いたんだよっ」
「G線上のアリアを……」
 咄嗟に口をついて出たものだった。だがそれだけに、僕の今の心境を正直に反映しているに違いなく。
 僕の答えを聞き取るや、悠季は「もうッ!」と声を上げ、グァルネリをピアノの上に置くとつかつかと僕の前に歩み寄って来た。見上げた僕に向かって、両手を腰に当てて言った。
「きみはとんでもなく疑り深いのか、それとも信じられないほど臆病なのか、どっちだ?」
 それは怒っているというよりも、呆れている口調で。
 呆然としたまま返答できずにいると、ギュッと鼻を摘まれた。
「自分がどんな顔してるか、判ってないだろ?」
 それから僕の耳を摘んでキュッと引っ張り、
「ちゃんと聴いてろよ?」
 踵を返すと、何を思ったのかピアノの横を素通りして、なんと、アマーティー写しを取り出してきたのだ。
(ああ……!)
 アリアが流れ始めた途端、僕は嘆息する思いで目を閉じた。
 グァルネリには遠く及ばぬ、明らかに聴き劣りがするはずの音色は不思議なほど気にならず、むしろあの頃よりも格段に深みを増した悠季の演奏にこそ惹き付けられる。
 丁寧に愛おしむように紡いでいくシンプルで美しいメロディに乗せて、悠季は語りかけていた。 密やかに、だが疑いようのない確かさで、彼の中に今も息づく想いを、僕へと。
 それは乾いた心に降り注ぐ温かい雨にも似て、初めて悠季の音に出会った日のことを彷彿とさせた。いや、あの頃よりも遥かに雄弁になった彼のヴァイオリンは、更なる癒しの力で僕を潤す。精緻な音の流れに幸福な気分で身を委ね、最後の一音を余韻が消えるまで聴き取ってからそっと目を開いた。
 悠季はこちらを見ていた。
 目で語りかけるように僕を見つめてふわりと微笑み、微笑んだまま目を閉じて再び弦に弓を乗せた。
 次々と奏でられていく耳に馴染んだ小曲を、僕は悠季と出会ってからこれまでの、僕らのアルバムを辿る思いで聴いた。一生の長さからすればほんの僅かな数年のことだが、その間になんと多くのことがあっただろう。ひとつひとつの曲にまつわる思い出は、その時々に味わった想いも呼び覚ます。天にも昇るほどの歓び、胸焦がす焦燥、鬱々と迷路を彷徨った苦悩、涸れぬかに思えた涙、幸福感に胸震わせた日……過ごした日々の数だけ想いも積み重ねられて、それはまだこれからも増え続けていく。
 そう、増え続けていくのだ。悠季と共に歩んでいける限り。
 知ってしまえば知らなかった昔には帰れないし、過去を無かったことには出来ない。ひび割れたガラス細工が元に戻せないように、人生は取り返しもつかなければリセットも利かない。だが、消えない傷を抱えていようとも、その痛みが気にならなくなるほどに幸福な想いを増やすことは出来る。愛しみと悦びと……紡いで、積み重ねて、埋め尽くすほどに。
 愛の挨拶を聴きながら、膝の上に置いていた花束を抱え上げた。清らかな白にごく僅かな紅を溶かし込んだ薄桃色のバラは、恋心を綴る甘やかなメロディに良く似合っている。ヴァイオリンの音に乗せ、花に託して悠季が告げてくれた想いに囁き返す心地で、そっと花びらに唇を寄せた。

「僕が柄にもない演出をした理由が解った?」
 弾き終えて僕の前に歩み寄ってきた悠季は穏やかにそう訊ね、「はい」と頷いた僕を見て満足そうに微笑んだ。
「じゃあ次のリクエストは? 何を弾こうか?」
 先ほどと同じように照れも媚びも感じさせない口調。僕は抱えていた花束を空いているソファの上に降ろし、悠季がヴァイオリンも弓も持っていないことを確かめてから、彼の手を取って引き寄せた。
「よろしければ、次はベッドルームで合奏を」
 悠季はプッと噴き出し、くすくす笑いながら言った。
「いいよ、その前にシャワーさせてくれるならね」
「ええ、もちろん」
 契約印とばかりに手の甲に口づけると、悠季はその手で僕を引っ張り立たせてくれて、僕は、強くて優しくてこの上なく愛情深い僕の守護天使を抱きしめ、心からの感謝を込めてキスを捧げた。
 
 

  FINE
 2008/8/11




圭のバースデーに寄せて。
無事に仲直りした後も、たぶん暫くの間はお互いの心に嵐の爪痕が残ったと思うし、特に圭は不安を拭いきれなかったのではないかと思うのです。そんな圭は、悠季から見れば結構歯がゆかったのではないかなぁ、と(笑)
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