星にのせて


 
部屋の灯りを消して懐中電灯を手にピアノ室の窓から庭に出た。途端に身体がキュッと縮こまり、ブルッと震えが走る。ネル地のパジャマの上に厚手のガウンを着込んで来たけれど、まだ足りなかったかも知れない。晩秋の夜気は、冬がもうすぐそこまで来ていると実感させる冷たさだ。試しにハーッと吐いてみた息が微かに白く染まった。
 月のない深夜の庭はすっかり闇に沈んでいる。近所の家々も殆どが灯りを落としているし、街灯の光も庭の木立に遮られて僅かに届く程度だ。懐中電灯で足下を照らしながら注意深く歩いては、立ち止まって空を見上げる。それを繰り返しながら、なるべく暗くて尚且つ空が開けている場所を求めて庭を進む。サンダルの下で枯葉が砕ける乾いた音が思いのほか大きく響き、足取りは自然息を殺したように慎重になる。程よい場所を見つけたところでようやく身体の力を抜き、懐中電灯を消した。
 昼間の上天気をそのままに夜空は雲ひとつなく晴れ渡っている。その深くて暗い藍色をじっと見上げながら闇に目を慣らしていく。矯正しても尚頼りない僕の視力では、明るい星を見つけるのさえ容易じゃないけれど、やがてひとつふたつと小さな輝きが目に入ってきた。

 見る気になって星空を眺めたのなんて小学生の頃以来。星座や一等星の名前なんかも覚えていたけれど、すっかり興味を失った今ではその記憶もあやふやだ。それでも、毎年同じ頃に出現するという流星群の存在ぐらいは知っていた。ただ、それが年によって流れる星の数には随分と差があることや、ここ数年が当たり年だと知ったのは昨年のことだ。世紀の大出現だとメディアがこぞって大騒ぎしてくれたお陰で、世間のことには疎くなりがちな僕らの耳にさえも情報が届いたという訳だ。
 雨のように星が降る―――
 そんな光景ならばひと目見てみたいものだ、と話を聞いた時には見る気満々でいたのだけれど、昨年は結局見損なってしまった。圭が持ち帰って来たとんでもない大舞台の話と、それにまつわるあれやこれやの所為ですっかり余裕を無くしてしまい、見ようと思っていたことすら頭の中から飛んでしまっていたんだ。
 その見逃した流星群の時期が今年もまた巡って来ていると知ったのは、今日の昼食時。学食でたまたま近くのテーブルに居合わせた小太郎と彼の友人たちが交わす賑やかなお喋りが教えてくれた。


『一時間に百個とか二百個とか流れるんでしょう? それだけあれば、願い事のひとつやふたつは叶えてもらえそうよね』
『でも一瞬だろ? 三回も唱える暇なんてないよな』
『せやな。連続して流れてる間はオッケーってことやったらいけるかもしれへんけど』
『一時間に百八十個として……二十秒に一個? う〜ん、結構間が空いちゃうよねぇ、きっと』
『世界中で一番条件が良いのはヨーロッパと中東で、二千とか三千なんだってよ。流れっぱなしだろうから大丈夫なんじゃない?』
『わざわざ行くんか!? 何処にそんな金と暇があるねん!』
『早口言葉の練習でもする方が、よっぽど現実的だな』
『あ、ねえ! 小太郎くんならいけるんじゃない?』
『あはは! 大阪弁の早口で、彼女欲し、彼女欲し、彼女欲し、ってか?』
『オマエと一緒にせんとってんか! わてはな、なかなかマルもらわれへん今の課題を、はよ合格させてもらえますようにって頼むんや』
『おい、それでギャグのつもりかー?』
『ぜ〜んぜん面白くなーい!』
 神頼みならぬ星頼みをする暇に練習しろよ、と言いたくなるのを堪えるのに苦労した。
 

 今頃は彼らもこの星空を見上げているだろうか。
 練習した早口言葉のような願い事を胸に。
 思い出して、ふふっと込み上げた笑いに目を細めた視界の端を、スッと白い光が流れた。
「あ……」
 目の錯覚だったのではないかと、何だか信じられない気持ちで瞬きを繰り返す。そのタイミングを計ったように、今度はすうっと長く尾を引いて流れた。
「あ〜っ」
 しまった! 今のなんか結構長かったのに……。
 暗い空に白銀の軌跡を残して星が流れるさまは一瞬ハッと息を呑むほど感動的で、頭の中が空っぽになってしまう。言葉を失うという以上に、まるで流れ星が僕の中身をそっくり攫って、遥か宇宙の彼方まで連れて行ってしまうみたいだ。
「これは〜、よっぽど心構えをしておかないと無理だぞー」
 小さな声で気合を入れるように呟いた。なるべく簡潔な言い回しを探してブツブツと口の中で言葉をひねくり回す。煩悩だらけの凡人の常で望みは尽きないけれど、こういうものは欲張っちゃダメだと、小さい頃にばあちゃんから教えられた。だから、願い事はひとつだけ。
 子供の頃の僕は「ヴァイオリンが上手くなりますように」と、七夕の短冊や初詣だけでなくサンタさんにまでお願いしたものだった。形に出来ないプレゼントを強請られて、父さんはさぞ困惑しただろうと思うと可笑しいやら申し訳ないやら。だけど、僕の一番の望みは、昔も今も似たようなものだ。

 南天で、ひときわ白く輝く星を見つめる。
 一年近く経った今も、思い返すたびに苦々しいものが甦る、あの日々、あのステージ。
 駆け出しもいいところの僕にとって、あれは望んだところでおいそれと叶うものじゃない、奇跡のように幸運な機会だった。それと同時に、音楽家であることと恋人であることを両立させて一生を共に歩んで行きたい僕らにとって、初めての本格的な試練。
『音楽でケンカしてもさ、ベッドで仲直りするって手もあるわけだし……』
 イバラの道を歩むことを選び取った四年前の夜、僕は彼にそう言った。でも、それがどれ程の困難と辛苦を伴うことなのかを、その時の僕はまるで解っていなかった。どんなに考えが甘かったのかを初めて思い知らされたのが、昨年のあの共演だ。
 世間からは成功と言って差し支えないだろう評価を受け、近しい友人からは、やれ見せ付けてくれるじゃねぇかだの、ごちそうさまっしただの、僕らの事情に通じている人たちならではの言い回しで賞賛をもらい―――けれども僕自身は、手放しで喜ぶ気にはなれなかった。
 あれが僕らに可能な最高の演奏だったのだろうか?
 僕らは本当に賞賛に値するだけの心地良いひと時を聴衆に差し出せたのだろうか?
 音楽家の自己主張と伴侶に対する我侭を最初に混同したのは彼だけれど、その公私混同した発言に激怒して冷静さを欠いた僕もまた、プライベートの関係ゆえの甘えを引きずったまま、単なる意地の張り合いに気をとられてしまったように思えてならない―――演奏家の本分をないがしろにして。
 僕らの関係に長く深刻な影を落とした疑念は、まだ消えずに僕の胸中にある。
 そして、この思いが未だ消化不良のように蟠っていることが、何よりの明白な答えだ。

 ピンチヒッターとして立ったそのステージに、今年は正式なオファーを受けて登る。
 昨年のあの演奏がこの結果に結びついたと思うと複雑な心境ではあるけれど、再び大きなチャンスを与えられた僕がこれ以上ないほど幸運なことは確かだ。そして、今度こそ真価を問われるということも。
 同じ轍は踏まない。
 それは願い事というよりも、決意だ。
 互いの好みも性格も考え方も、そして望む音楽も。誰より理解し合っている僕たちだからこそ奏でられる音楽を。
 音楽家同士である僕らが共に生きることの意味を。プライベートの関係を演奏に生かすとしたら、そこに尽きるのではないだろうか。そうして創り上げることが出来た演奏は、きっと僕たちだからこそ奏でられる最高に心地よい音楽になるに違いない、と。
 昨年、僕らの足元を危うくした関係は、翻ってこれ以上ない大きな強みになるはずだ。
 一年前、彼に向けていた燃えるような闘志とは違った意気込みを、僕は今この胸に抱いている。大舞台への緊張とは裏腹に、わくわくするような期待感。早く彼と共演したくて、身体中がうずうずしてる。まるで子供の頃に初めて曲を弾くことを許された時のようだ。
「圭、早く帰っておいでよ」
 そして、一緒に僕らの音楽を創ろう。
 来年も再来年も、また僕らの共演を聴きたいと思ってもらえるような、今度こそ納得のいく最高のステージにしよう。

 続けざまにふたつ流れた星に、チャンスとばかりに慌てて願い事を唱えてみたものの、やっぱり間に合わなかった。三回繰り返すなんてとても無理だ。これはやはり星頼みじゃなくて、自力で実現させろってことなんだろうな。
「……っくしゅ! くしゅ……っ!」 
 苦笑いを浮かべたところでくしゃみが飛び出した。
 ぼんやりと考え事をしている間にも気温は着実に下がっているらしく、ゾクゾクと寒気が背筋を這い上がってくる。ここで風邪でもひこうものなら、最高のステージどころかまともに演奏することも叶わない。それこそ昨年の二の舞は御免だ。
 すっかり冷えてしまった肩を抱くようにして擦りながら、出てきたピアノ室の窓に向かって歩き出した。それでもまだ懐中電灯も点けず足取りも緩やかなのは、願掛けは兎も角、吸い込まれそうに美しい星空に少しばかりの未練があるからだ。
 毛布でも被って出直して来ようか?
 チラリとそんなことを思ってガラス戸に手を掛けたところで電話が鳴っているのに気づいた。こんな遅い時間に掛けてくる相手には、ひとりしか思い当たらない。暗い部屋に上がり込んで手探りで壁のスイッチを入れ、電灯に目を眩まされながら台所に駆け込んで―――慌てて掴んだ受話器の向こうからは、予想通り、僕の大好きな艶やかなバリトンが、遠慮がちに話しかけてきた。
「すみません、もう休んでおられましたか?」
「いや、起きてたよ。待たせてごめん。庭に出て流れ星を見てたんだ」
「おやおや、随分とロマンチックなことを。 まさか、そんなひと時を共に過ごしたい相手が、今きみの隣にいるのではないでしょうね?」
 やきもち焼き亭主そのものの発言は冗談半分の含み笑い口調。でも、つまりは、半分は本気ってことだ。何年経っても変わらない彼のそんな愛すべき子供っぽさに苦笑を誘われながらも、僕は密かに安堵する。
「だったら良かったんだけどね。あいにくと僕がいつも隣に居て欲しいと思ってる相手は、今は遠い空の下だからさ。ひとり寂しく星に願いを掛けてたとこだよ」
 それから、今夜星を眺めるに至った経緯を、小太郎たちのお喋りを掻い摘んで話してやった。
 家を離れている時の彼は、留守中の僕の様子を、他愛ない日常のあれこれを聞くことを殊の外喜ぶからだ。涼しげな切れ長の目を、きっと優しい微笑みに細めているに違いないと思わせる声で相槌を打っていた圭は、僕が話し終えるとすかさず訊ねてきた。
「で、何をお願いしたのですか?」
「それはやっぱ、願い事が叶うまで内緒にしとくもんじゃない?」
「もしかして、僕には言えないことですか?」
「ふふ、だから誰にも言わないってことだよ」
「悠季、言ってください。早く僕に会いたいと願ってくれた?」
 睦言を囁く調子で徐々に低く艶っぽくなっていく声に、僕の中の恋人の部分がさわさわとさざめく。それは、彼の意のままにどんなに恥ずかしい自分をも曝け出す従順な僕だ。けれどたった今決意を新たにした僕の意識は、大部分が演奏家の僕に留まっていたのかもしれない。
「まあ……それが大前提じゃあるんだけどね」
 ふぅ、と微かに聞こえたため息は、僕の心境を察した彼が渋々ながらもそれを了承してくれた証だろう。あとひと月足らずに迫った二度目の大舞台に、今度こそはと意気込む僕の気持ちを誰よりも理解してくれているのは、彼に他ならないのだから。そして多分、彼の方も同じような意気込みを胸中に湛えているのだろう、と。
「実はさ、流れ星なんて一瞬で消えちゃうから、三回も願い事を唱えるなんて出来なくてさ。寒くて風邪ひきそうな気がしたから、星頼みは諦めたところだったんだ。 あ、ねえ! ヨーロッパじゃ日本の十倍ぐらい流れるそうだから、きみがそっちでお願いしてよ」 
「悠季……せめてそういう時は、一緒に、と言ってください」
「あは、うん、ごめん。勿論その方が効き目はバッチリだよな。じゃあさ、今から毛布を被ってもう一度庭に出るから……そうだな、五分後ぐらいに……きみもそっちで一緒にお願いしてくれる?」
 僕は至って真剣にそう言ったんだけど。
 圭はなぜか暫し沈黙した後、くっ、と笑いを呑み込んだような声を漏らした。やがて我慢ならないというように、くっくっ、と笑い出した。
「ちょっと、圭? なに笑ってるのさ! 僕は真剣に言ってるんだぜ!?」
「ええ、きみが、至極真面目だと、いうことは…判って、います。ですが……」
 こみ上げる笑いの所為だろう、途切れ途切れにそう言った圭は、きっと目尻に笑い涙を浮かべているに違いない。けど、そんな彼に憤慨する間もあらばこそ。ようやく笑いの発作を治めたらしい次のセリフは、僕を耳まで真っ赤に染めた。
「きみの提案は大変魅力的なのですが、こちらはまだ西日が差している時刻でして」
 時差に阻まれるもどかしさを、これまでにも散々経験してきたくせに!
 夢中になるあまり、僕はそのことをすっかり失念していたのだった。
 だから彼が澱みなく話し続けている「今夜のステージが終わったら、僕も必ず星に願いを掛けますよ」とか「何事にも一途になれるところは、きみの数多ある美点のうちのひとつですね」なんて言葉は、僕をいつも歯の浮くようなお世辞で舞い上がらせる彼流の優しい慰めとして耳を素通りしていった。頭の中は「恥ずかしい」と「僕はなんて馬鹿なんだ」って思いに占領されちゃっててさ。だから彼のその言葉に反応できたのは、それが有無を言わせぬコンダクターの口調で言われたからなんだろう。
「今日のところは、僕が予定通り無事に帰れるようにと願ってください。僕らの一番の懸案事項は帰り着いた後に、我が家の庭でふたり一緒に願掛けをしましょう。いいですね?」
「う、うん…待ってるよ。 いい仕事をして、それから……気をつけて早く帰っておいで」
 素直にそう答えた僕に、多分圭は気を良くして―――調子に乗りすぎた。
「愛しています、悠季。 僕はきみの頑固なところも、気の強いところも、意外にうっかり屋なところも……きみのすべてを愛していますよ」
「ああ、僕もさっ。あ、愛してるよっ!」
 彼のように頭の回転が良くない僕に出来たのは、声まで真っ赤に染まっているとバレバレの調子で、そう怒鳴り返すことだけだった。




FINE
2007/11/30

※お断り:流星群に関するデータは、「日本流星研究会」さまのHPを参考にさせて頂きました。

待望の『本編版・雪嵐』を前に、全身全霊でバトルを展開しただろう彼らに敬意を表して。
私なりの「その時&その後」を想像してみましたが、原作並びに皆さまの想像されるものとかけ離れていてご不快でしたらご容赦下さいませ。
作中に登場する流星群は、毎年11月半ばに極大を迎える「しし座流星群」がモデル。1998〜1999年辺りは「流星雨」や「流星嵐」と予想されたほどの大出現だったようです。



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