Trick and treat!


 
その電話が掛かってきたのは、ちょうどロスマッティ家の夕食が始まろうかという頃だった。
 少し前に帰宅したばかりでシャワーと着替えを終えたところだった僕は、まだザッと乾かしただけの髪を慌てて手櫛で撫で付けながら食堂に向かった。
「はい、桐ノ院くんから。ご飯まだやったら食べにおいでて呼んであげよし」
「あ、はい。ありがとうございます」
 麻美奥様のお気遣いに、僕は少しバツが悪いような気持ちでお礼を言って受話器を受け取った。それというのも、先週の一週間僕らはずっと一緒に過ごしていて、昨日の今日って感じだったからだ。
 コンクールに出場する圭の応援という理由があってのことだけど、修行中の身でありながら一週間もの休みをいただいてのエルサレム行き。それも、情勢不安な土地だからと渋っておられた先生たちを説き伏せての渡航。そうして心配をおかけしていながら、行った先ではホテルの一室にふたりで泊まって……まあそれなりのこともあった訳で。ローマに戻ってからだって、まだ幾らも日が経っていない。始終ベタベタしたがっているみたいに思われやしないかと、それを考えると気まずかったんだ。いつもの休日前夜のパターンなら、先生とは駅で別れて圭のアパートに泊まりに行くところだけど、今夜はそれを言い出せなくって一緒に帰ってきてしまったのもその所為だった。
 
《すみません。忙しかったですか?》
 つい、ぶっきら棒な受け答えをしてしまったので、圭の声は僕の機嫌を窺うような調子だった。バツの悪さに加えて、「今夜は来れないのですか?」なんて訊かれたらどう答えようかって気が気じゃなくてさ。
 でも、これじゃまずいよな。
 こんな調子で麻美奥様の伝言を伝えたら、ホントは来るなって言ってるみたいに聞こえてしまうかもしれない。言い訳めいた言葉を挟んで、僕は気持ちを切り替えた。
「いや、ちょうどシャワーを浴びて着替えたとこだったんだ。ところでさ、奥様が、夕飯がまだだったら食べにくれば、って言ってくださってるんだけど……―――えっ?」
 圭の用件は、邪推した僕が恥かしくなるような真面目な内容だった。それを事務的な口調で淡々と伝えられて、僕は次第に神妙になってしまう声音で「うん」と「そう」を繰り返し、「判った、道中気をつけてね」と結んで電話を切った。

「なんや深刻な話みたいやったね。ベベは来はれへんの?」
 読んでいた新聞をガサガサと畳みながら訊ねてこられた先生と、心配そうにお顔を曇らせていらっしゃる奥様を代わる代わる見ながら、僕は電話の内容を掻い摘んでお話しした。
「明日の便で、一度日本に帰るそうです。準備があるので今夜は失礼させていただくそうで……奥様によろしくとのことでした。あ、その……せっかくお誘いいただいたのに、すみません」
「ああ、そんなこと気ぃ使わんかてかましまへんけど……」
「とうとうM響の事務局が痺れを切らさはったんやね?」
「はい。前々から言われてたようですが、今度のことで随分と催促されているようで」
 圭の指揮者コンクールでの戦績は、最初のヤーノシュこそ不本意な結果だったものの(それだって優勝者なしの二位で、最高位入賞だ)ブザンソン、つい先日のバーンスタインと圧倒的な力を見せ付けての連続優勝という華々しいもの。聴衆だけでなくオケの楽員や審査員までもが熱狂する様子を僕は目の当たりにしたけれど、あの興奮は多少なりとも日本にも届いていることだろう。
「ベベは元々それだけの実力を持ったはるし、万人が認める形で示さはったんやから当然と言えば当然やけどねぇ」
「……はい」
「それで、いつ戻って来はるの?」
「はっきりとは。本人はとんぼ返りのつもりでいるようですが……」
 奥様の問いに答えながら、僕は気持ちが沈んでいくのを止められなかった。すぐにも帰国という話になるのも十分に有り得ることだと、僕だけじゃなく先生も奥様もそう感じていらっしゃっることが伝わってくる。今だって頻繁に会えるわけじゃないけれど、圭が完全に帰国してしまったら、僕らは滅多に会えなくなってしまう。ロスマッティ家の皆さんには本当に良くしていただいているし、この土地にも随分馴染んだけれど、それとは別の次元で堪らなく心細くて、寂しい。
「ユウキ、会いに行かんでええの? ベベはもう戻ってこんのかもしれへんのやろ?」
 言ってしまったら本当になりそうで、怖くて口に出せなかったことをズバリと言ってのけたのは、食堂の入り口からひょいっと現れたカルロくんだった。しかも、全身黒尽くめ格好の。
 黒のタキシードに黒いマント、青白く化粧した顔の唇だけが赤くて、何で作ったのか牙まで覗いている。ピッタリと撫で付けた髪といい、若い頃のロスマッティ先生に似たハンサムな青年は、どこから見ても貴族的で優雅な吸血鬼だ。しかも、小さなコウモリのぬいぐるみまで肩に留まらせている念の入りようで。
「どう? 結構イケてるやろ?」
 マントを翻しながらくるりと回って見せると、茶目っ気たっぷりのウィンクを投げて寄越した。
「う、うん。すごく似合ってるけど……仮装パーティーでもあるの?」
「そや。ハロウィンやからね」
「イタリアには元々ハロウィンなんて習慣はないんやけどね。アメリカなんかでは子供だけやのうて大人も一日中仮装して過ごさはったり……えらい盛リ上がるんやてね」
 そういえば、日本でも店先をそれらしく飾りつけたりするけれど。こっちでは見かけないものだから、今日がハロウィンだなんてすっかり忘れていた。
「カルロやったら、小さい子ぉらと一緒にお菓子を強請って歩いてもおかしないわねぇ」
「麻美マンマは、ホンマにきっついなぁ」
 情けなさそうに顔を歪めたカルロくんに、皆が笑って。でも、一気に和やかになった雰囲気を再び引き締めたのもカルロくんだった。
「ユウキも連れて行こう思て衣装も用意してたんやけど、それどころやないね。ベベのところへ行った方がええよ、ユウキ」
 真剣な目に見つめられて、僕は思わず俯いてしまった。
「そういやお休みの前の晩やのに、今夜はなんで行かはれへんの?」
「えっ、いえ、でもっ、先週もずっと……一緒でしたし……」
 しどろもどろに答えながら、頬が熱くなってくるのを感じる。はぁ、と先生のため息が聞こえて―――居た堪れない思いで顔を上げた僕を、先生は「しょうのない子ぉやねぇ」と言わんばかりの顔でご覧になっていた。
「そんな遠慮、せんかてよろし。ユウキは今日の仕事をキチンと済まさはったし、明日はお休み。誰憚ることなく自由に過ごしてええのんは当たり前のことですえ? それに、ベベの方にしたら、いつ戻って来れるか判らへん分、尚更相談しときたいことがあるんやおへんか?」
 つまらない体面なんかに囚われて、大切なことを見失ってはいけない、と。先生はそう仰っているのだった。
「ほな決まりやね。ユウキ、はよ支度して! 僕、ついでに送ってったげるわ」
「や、だって、その……!」
 女の子じゃあるまいし。それに僕の分の夕食も既に用意されている筈で……と躊躇っていたら、麻美奥様に紙袋を手渡された。
「ピザが入ってるさかい、桐ノ院くんとおあがりやす。足らん分は、なんぞ自分でこしらえてね」
 笑って頷いていらっしゃる先生と奥様に深々と頭を下げてお礼を言い、電話をお借りした。
 いただいたピザを持ってこれから行くと伝えた電話の向こうで、圭の声は嬉しそうに弾んでいた。
 そうだよな。ローマを離れる前にもう一度ふたりきりで会いたいと、圭だってそう望んでいたはずで。さっきの事務的な電話は、僕の立場を考えて言うのを我慢してくれた圭の「来て欲しい」という遠まわしなメッセージに違いなかったのだから。
 僕はもう一度先生たちに頭を下げると、カルロくんと一緒にロスマッティ家を後にした。
 ちなみにカルロくんが「送っていってあげる」と言った意味は、タクシーでパーティー会場まで行くついでに圭のアパートを経由してくれるってことで、僕と熱々のピザを少しでも早く圭の許へ届けてやろうとの思いやりなのだった。
「てっきりコウモリになって空を飛んで行くのかと思ったよ」
 照れ隠し半分でそう言った僕に、美貌の吸血鬼青年は腹を抱えて大笑いした。
 あーあ、そんなに笑って。それじゃせっかくのクールな雰囲気が台無しだって。



 アパートの玄関を入り部屋へ向かう階段の途中で、僕は手にしたもうひとつの袋の中身を広げてみた。タクシーの中でカルロくんに押し付けられた、彼が用意したという僕用の衣装だ。丈が長くてたっぷりした黒いローブのような服と、同じ生地の三角帽子。先端に銀の星がついた玩具のバトンが添えられているところを見ると、どうやら魔法使いの衣装らしい。
「せっかく用意したんやから、これ着てお菓子を強請ったったら? ベベをびっくりさせてやったらええねん」
「う……ん、でも、たぶんそんなお遊びに付き合う気分じゃないだろうから」
 それは圭の心情を推測すると同時に僕自身の心境でもあったのだけれど。
 カルロくんは途端にニヤニヤ笑いを引っ込めて真面目な顔で言った。
「そうかなぁ? 僕がベベやったら、ユウキがそんな深刻な顔して塞ぎ込んでたらかなわんけどなぁ。『当然のことや』いう顔して送り出したった方がええんとちがうの?」
 ああ……、確かに。
 僕が辛そうな顔をしていたら圭は後ろ髪を引かれてしまうだろう。かと言って、圭のようにポーカーフェイスなんて出来ない僕は、何の助けもなしに明るく笑って送り出してやるなんて、きっと出来やしないんだ。思えばハロウィンにかこつけたカルロくんの提案は、不器用な僕が笑って送り出したいという気持ちを表すにはピッタリの方法で―――いつも冗談を言ってばかりのふざけ屋の彼は、僕よりもずっと細やかな神経と深い洞察力を持っているのだった。
 かなり気恥ずかしかったけど、他には誰も見ていないんだからいいってことにして、魔法使いの衣装を身に着けた。
「えっと……trick or treat、だったっけ?」
 片手にピザの入った袋を抱え、星の付いたバトンを持った手でノックを三回。
 サイズが大きすぎてズルズルと落っこちそうになる帽子を慌てて押さえたら、自分で鍵を使ってドアを開けるのは無理ってもんで。でも、「誰ですか?」と訊ねる圭の声は、びっくりするほどすぐに返ってきた。
「圭、僕だよ。開けてく―――」 
「悠季!」
 全部言い終わらないうちにドアが開いて。圭は僕の姿を見た途端、一瞬真ん丸くした目をきゅっと細めて微笑み、それから僕をぎゅうっと抱きしめた。でも、圭のその表情は、僕には何故か泣き出しそうな顔に見えた。
 ドアの内側で僕が来るのをずっと待っていたのだろうか?なんて思ったら、堪らなく切なくなった。涙が出そうになって、逞しい胸板に顔を押し付けて堪えた。
 だって、ここで感傷に流されて甘えてしまったら、仮装した意味がない。
「悠季じゃなくて、魔法使いなんだけど?」
 抱きしめてる腕が少し緩んだので、僕は身体を立て直して意外そうに僕を見下ろしている目の前に星のバトンを翳した。
「trick or treat?」
 くすっ、と零れた笑い声。
 それから満面の笑みを浮かべると、圭は再び腕の中に僕を取り込めた。
「あいにくとお菓子の用意はありませんが、とりあえず甘いものを……」
 まだドアは開けたままで、他の住人がいつ通りかかるかも知れないというのに。僕の抵抗を両腕でガッチリ封じながら、極上の甘いキスはそれこそ満腹になるほど長々と続けられ―――まともに歩けなくなった僕を抱き上げた圭は、真っ直ぐベッドルームに向かいながら言ったのだった。
「お菓子を差し上げられませんでしたので、どうぞ存分に悪戯してください」
 ニヤニヤと笑いながら、それはそれは嬉しそうな声音で。
 ―――そ、それって……悪戯の意味が違うんじゃ……?
 開いた口が塞がらない、って気分だった。でも―――

 その夜、僕は悪戯な恋人以上に悪戯な魔法使いになって、彼の望みどおり存分に彼を愛した。
 唇で、指先で―――愛しくて堪らない身体を隅々まで辿りながら、愛撫のひとつひとつが、目指すものに向かって確かな一歩を標した圭への祝福と励ましとなって伝わるように、と心を込めて。音楽家としては喜ばしい一歩が、恋人同士にとっては辛く大きな隔たりになる。こんなことは、きっとこの先何度でも起こるのだろう。
 けれども、僕らはその道を選び取ってしまったのだから。

 翌日、僕に見送られて旅立った圭は、自信と輝きを纏ったいつもの彼だったから、僕の気持ちはちゃんと届いていたのだと思う。あるいは、蘇った悪霊から身を守る為のものだったというハロウィンの仮装が、僕らを覆っていた重苦しい空気をも払い除けてくれたのかも知れない。予想通り「すぐにも帰国を」と要請された圭が、五ヶ月の執行猶予を勝ち取って僕の許へ帰ってきたことも、僕にはなんだかハロウィンの魔法のような気がしたのだった。
 俄か作りの魔法使いの腕だって、なかなかどうして、捨てたモンじゃないだろ?

 ロスマッティ家に戻った僕は、ひと役買ってくれたお礼の意味も込めて、カルロくんにその夜の顛末を報告した。もちろん、差し障りの無い部分だけ、だけどね。いつものからかうような笑みじゃなく、優しい微笑みを浮かべて話を聞いてくれている彼の視線が、何だか気恥ずかしくて。
「弓をバトンに持ち替えて、今後は魔法使いの修行をするべきかな?」
 照れ隠しに言った僕のヘタクソな冗談は、彼をまた大笑いさせたのだった。



FINE
2007/10/18



やっと季節に合わせて季節モノをUPできました。それだけで満足です^^;
思えば、ハロウィンもの書いたのは初めてだ〜!
タイトルは英語力皆無な私の間違いじゃなくて、両方とも手に入れた悠季への私からのブラボーです(念のため/笑)


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