ふたつの花束 Ｍ響の定期公演があった夜、圭が花束をふたつも持って帰ってきた。 珍しいこともあるもんだ。 ファンからのプレゼントは引きも切らず、毎回花屋がやれそうなほど届くのは知っているけれど。留守がちで満足に世話が出来ないからと、スタッフやオケの女性たちに分けてしまうのがいつものパターンで、持ち帰ることなんて僕の知る限りなかった。 玄関のドアを開けて出迎えてやった僕に、両腕いっぱいの花を抱えた美丈夫は、乱れ落ちた前髪を額に貼り付かせたまま微笑んだ。時間が無かったのか、それとも着替えるのが面倒だったのか、燕尾服のままで―――その姿が憎らしいぐらいにキマってる。 「あは、髪、鬱陶しかったんじゃないかい？」 伸び上がって、手が塞がっている彼の代わりに汗に濡れた前髪を両手で梳き上げてやり、露わになった額にお帰りのキスをする。屈んでそれを受け止めた圭は、ただいまのキスを僕の唇に返してきた。 互いの胸の間でカサカサとセロファンが鳴る。 花の香りの中で交わすキスは確かにロマンチックじゃあるけれど、抱き合えないのはもどかしい。逞しい肩に縋り、彼の腕に抱きしめられて深く舌を絡め合う、いつものキスがしたい。この場合、花束なんてはっきり言ってお邪魔虫だ。けれども、ノックしてきた圭の舌を適当に躱し、御座なりにキスを済ませたのは、別の理由によるものだった。 本当は一回だって逃したくないのに、僕は今夜の圭の演奏を聴きに行けなかった。最近では時たまある、それぞれの演奏会が同じ日に重なるという嬉しくない偶然。仕事なんだから仕方がないと判っていても、悔しいものは悔しい。しかも花束を持ち帰るぐらいご機嫌なんだから、今夜の演奏は彼自身満足のいく出来だったのだろう。 そんな素晴らしい時間を、どこの誰とも知れない大勢の聴衆は手に入れたというのに、僕には与えられなかったのだ。彼の演奏に惚れ込んでいることにかけては誰にも負けない、一番のファンを自認するこの僕には！ 解っている。これは単なるやっかみの類で、文句を言うのはお門違いだ。けれども、大切そうに圭の腕に抱かれている花束は、圭と彼らが幸福な時間を共有した証であり、僕にとっては疎外感を抱かせ、悔しさを思い起こさせる以外の何ものでもなかった。 「悠季？」 じっと花を見つめたまま立ち尽くしてしまった僕を、圭が訝しげに覗き込んでくる。彼に愚痴って甘えてしまいたい気持ちをグッと呑み込んだ。 「あ……ああ、ごめん。貰った花を持って帰ってくるなんて珍しいなって思ったもんで、さ」 「ええ。この花束はどちらも特別ですから」 圭はチラリと花に目を遣って微笑んだ。 特別？ それって、何かいいことでもあったのか？ それとも……特別な人から贈られて、特別大切にしたいってことか！？ 「風呂……早く汗流したいだろ？ 用意してくるから」 圭が見せた微笑みも特別だという言葉も、面白くない気分を煽るばかりで、このままだと罪も無い花に八つ当たりをしてしまいそうだ。そんなみっともなくて醜い僕は見せたくない。だから風呂を口実にして彼に背を向けた。それなのに、圭は僕を追いかけてきた。 「風呂は後でいいです。悠季？ 待ちなさい、悠季！」 肩を掴まれて無理矢理振り向かされた。どこに置いてきたのか圭の手に花束は無くて、腕の中に抱きこまれた。 「悠季、きみは何か勘違いをしていますよ」 「勘違いって……別に、何も……」 あやすような優しい口調。そんな風に言われたら、尚更言い出せなくなる。僕は花束の向こうの見知らぬ誰かに―――圭に大切に思われているのだろう誰かに―――嫉妬しているだけなんだから。 石のように押し黙っている僕の背中をゆったりと撫でながら「困ったな」と圭が呟いた。 「あー、きみの気持ちが解れるまで待ちたいところなのですが、残念ながら時間がありません。兎も角こちらに来てもらえませんか？」 言葉はとても丁寧だったけど、僕を促した腕は強引だった。連れて行かれた台所のテーブルにはあの花束たちが置かれていて……。思わず目を背けてしまった僕を、圭は後ろからガッチリ捕まえたままテーブルの方へ押し出した。 「よく見て下さい。まずは、右の花束を」 仕方なく目を向けた。圭が示した右の花束は、小さめの花ばかりいろんな種類を取り合わせてあるものだ。 薄い緑を刷いた白バラ、白いスプレー菊、白いトルコ桔梗にピンクのアルストロメリア、涼しげなブルーのデルフィニュームと、この明るい紫色はバーベナだったっけ？ 他にも名前を知らない小花が何種類かと、たっぷりのカスミソウ、そして緑のリーフが添えられている。花の数が多いから結構大きな花束なんだけど、白を基調にパステルカラーを添えた色合いや、可憐な花姿が何とも言えずふんわりと優しい印象で―――僕は何となく首を傾げた。 「これを見て何か思いませんか？」 何かってなんだ？ 更に首を傾げた僕に、圭が言い継いだ。 「そうですね……例えば、この花は僕に似合う？」 言われてあっと思った。そう、多分、僕が感じた違和感の正体もそれだ。 圭のファンが彼に贈る花束は、貴族的な感じがする高芯咲きのバラとか、大胆で情熱的な南国の花とか、モダンで端正な姿のものとか……如何にも彼に相応しいはっきりした印象のものが多いんだ。だからいつも楽屋は豪華絢爛って感じになる。 「ちょっと違う……かも。でも、いろんな人がいるからさ、たまには……」 「ええ、確かにそうですが、お陰でこの花束はとても目立ったのですよ」 「だから……目に付いたから、持って帰ってきたのかい？」 「いいえ。カードを見てごらんなさい」 花の間に挟まれた小さな白い封筒を取り上げて、恐る恐る開いた。中から出てきたのは、たったひと言『Congratulations! 』と書いたカード。何がおめでとうなのかはよく判らなくても（まあ普通は『公演おめでとう』だろうけど）連名で添えてある署名だけで、圭がこれを持ち帰った理由が判る。 僕も良く知るふたりの名前。 「川島さんと春山さん！？」 「直接は会っていないのですがね。でもお陰で彼女たちの思惑が読めた気がしましたよ。これは僕が家に持ち帰ってきみに渡すことを想定した花束だろう、とね。この優しい雰囲気は、如何にもきみに似合いでしょう？」 「でも、なんで、こんなことを……」 フジミの人たちは僕らの演奏会によく来てくれるけど、楽屋に顔を出してくれる時だって、いつも手ぶらだ。それは一期一会のステージに全身全霊を傾ける僕らに対し、その場へ足を運ぶことが一番の 「もうひとつの花束を手にすれば、理由が判りますよ」 白い大輪のユリ、カサブランカ。それだけを束ねた一抱えもある豪華な花束は、僕にも結構馴染みのあるもので―――圭が記念日というと贈ってくれる花束は、いつもこれだからだ。カードは見当たらないな、と無意識に花の間に目を走らせていたら、圭が花束を抱き上げた。抱き上げたと言うのが相応しい、恭しい手つきで。そうして、僕の前に差し出す。 「これはファンから貰ったものではありませんよ。悠季、今日は何日？」 「え……？」 言われて忙しなく頭を巡らせる。あっ、と口を開いた僕に、圭が優しく微笑みながら言った。 「きみに出逢えたこの日の僥倖に感謝して。今も変わらずきみだけを愛していますよ」 手渡された花束はずっしりと重くて、圭の温もりが伝わってくるような気がした。純白の花びらがやたらと眩しい。むせ返るような芳香が息を吸う度に身体中に沁み入るようで……でも鼻の奥がツンと痛んだのは、匂いの所為じゃない。 「圭……ごめん……」 「忘れていたでしょう？ 玄関でのきみの反応で判りました」 「うん……ほんと…ごめんね？」 「いえ。その所為もあって、きみに意地悪く思わせぶりなことを言いましたので、お互いさま、ということで。何とか今日中に渡せて良かった」 「そのために着替えもしないで帰ってきたのかい？」 「まあ、急いだのは確かですが。できれば正装のままで渡したかったのですよ」 きみの前では、いつも最高にイイ男でいたいので、と笑う。 こういうカッコつけは、いわば圭の心意気の表れ。何年経っても僕のことを大切に思ってくれている気持ちの表れだ。 「ありがとう……僕も、愛してる…」 広い肩に、そっと頭を凭せ掛けた。 僕らの胸の間で、カサカサとセロファンが鳴る。その音が、どうにもくすぐったく聞こえた。 今日６月７日は僕たちが出逢った記念日で、それはフジミの皆が圭と出逢った日でもある。僕らの数ある記念日は勿論ふたりだけの秘密だけれど、その中でも唯一今日だけは、圭と僕の本当の関係を知るフジミの仲間がその気になれば推測できてしまう日なのだった。 「ねえ、川島さんと春山さんはさ、今日きみが僕に花を贈ることを知ってて、それで、その……買わなくて済むようにって思った訳じゃ…ないよね？」 「ふふ、いくらなんでもそれは無いでしょう。彼女たちは僕らが何某か祝いの席を設けると考えて、文字通り花を添えてくれるつもりだったのではないですかね」 圭に宛てたプレゼント。けれどその中身は僕のことも考えて選んだもので、実は僕らふたり宛てのプレゼント。そうと解るのは、贈り主と受け取った本人たちだけという仕掛け。それを誰が見ても不自然じゃない楽屋見舞いの体裁をとって贈ってくれるなんて……！ なんて洒落た贈り物だろう！ 「なんだか……一緒にお祝いしてもらってる、気分だ……」 「まさにその通りですよ」 誰からも歓迎されない恋だと、判っていて身を投じた。判っていたつもりなのに、覚悟が甘かったと幾度も思い知らされた。圭には絶対言えないけれど、少しだけ後悔したことも、あった。だけど…… 鼻の奥が、痛い…… 「……嬉しい……」 「ええ、本当に……」 花束に顔を埋めようとした僕の手からそれを取り上げて、圭は僕をぎゅっと抱きしめた。しっとりと汗ばんだ燕尾服の胸が、いつもより少し早い鼓動を刻んでいる。テーブルに載ったふたつの花束の横で、僕らは互いの嬉しい気持ちを噛みしめながら、暫くの間静かに抱き合っていた。 「圭、あのさ……なんだか、彼女たちに見られている気がするよ」 こんなプレゼントをくれるなんて、僕たちがどんな風に記念日を祝うのか、何もかも全部想像されている気がしたんだ。 「では、見せ付けてやるチャンスですね」 「や、やだよ！ そんな、恥かしいこと……っ」 「たかが花束ではないですか」 僕にはもうとても《たかが花束》とは思えなくって、エアコンの風に華奢な花びらが震える様子にさえ、彼女たちがくすくす笑っている顔がダブってしまうのだった。だから、有無を言わさぬ腕に抱き捕らえられて、嬉しいけど嬉しくないキスを交わしながら、頬が燃えるように熱くなるのを止められなかった。 その花束は、僕らの食卓を彩った後、ピアノ室の壁を飾るドライフラワーになった。圭がくれたカサブランカの花束は、長く僕らの寝室に甘い香りを添えてくれた。ちなみに、置き場所を逆にしなかったのは、ユリの芳香は食卓には強すぎるという理由だからね？ 念のため。 そして…… 圭があの時、意地悪く思わせぶりな言い方をしたもうひとつの理由は、僕のステージを聴きに来れなくて悔しかったから、なんだそうだ。嬉しいやら可笑しいやらで僕のいじけた気持ちはすっかり吹き飛んでしまい、実は僕も…と告白したら「僕らの心はこんなところまで寄り添っているんですね」なんて言われて。僕も、満更でもない気分で一緒に嬉しがっていたんだけれど、こういうのって『割れ鍋に綴じ蓋』ってヤツじゃないのか？ 今思い返すと、かなり恥かしいぞ、やっぱり。 ともあれ、僕らは今も、身も心も寄り添って毎日を楽しく忙しく過ごしている。 FINE 2007/07/01 ６月７日に寄せて。 たぶんこれからもずっと、記念日は欠かさず祝っているだろうふたりの近未来を妄想。 遅くなってしまったので、後日回想している感じに仕上げてみましたー。 << ＢＡＣＫ |