あの日のきみへ 「それでね圭、実はさ、その……プレゼントが用意できてなくって……ごめんね？ 何か欲しい物とか、ある？」 枕にしていた僕の腕から頭をもたげて、悠季はさも申し訳なさそうな顔で言った。 時刻は八月八日の午前零時を三十分ばかり過ぎたところ。日付が変わるやいなや、「誰よりも先に、きみにおめでとうが言いたかったんだ」などと可愛い言葉を添えて誕生日を祝ってくれた悠季を、愛しさのままに抱き寄せてベッドに縺れ込み、ひとしきり甘い身体を堪能して。抱き込んだ滑らかな肌の撫で心地を楽しんでいた時のことだった。 「それは、僕のリクエストを叶えて下さるということですか？」 「うん。あ、もちろん、僕の甲斐性の範囲になっちゃうけどさ」 上気した頬に潤んだ瞳。熱い時間の名残もそのままの艶かしい表情で、今、僕にそれを問う危険は承知の上なんでしょうかね？ だが、悠季の意識はまるで違う方向に向いているようで、言い継ぐ表情は真剣そのものだ。 「きみはいつもすごく素敵なプレゼントや趣向を凝らしたイベントなんかを用意してくれるのに、こんな薄情っていうか…手抜きみたいでさ、ホントに申し訳ないんだけど……。一応ね、僕も考えてたものはあったんだよ？ けどね…」 悠季が言うには、取り寄せを頼んだ品物が、間際になって入荷できないと判ったらしい。いろいろ考えて迷った末に決めたものだったらしく、その落胆も相まって余計に僕への後ろめたさが募ってしまったようだ。 誕生日に限らず、僕が何かというときみに贈り物をするのは、僕の単なる我侭なんですがね。きみに似合いそうな物を見つけるたびに、それを身に着けたきみが見たくなる。評判のホテルや話題のスポットの話を聞けば、そこできみと一緒に過ごすひと時を思い描き、行ってみたくなる。だからきみが負担に思うことなどこれっぽちも無く、見返りなど端から要求する気も無い。いえ、その時々にきみが見せてくれる微笑みこそが僕には最高の返礼。つまりは、僕の傍に居てくれることで、きみは毎日僕にプレゼントを贈ってくれているようなものなのですよ。だから、世界中の何処よりも寛げるこの愛の巣で、一日中きみを見つめ、きみに触れ、きみを感じて。ゆったりと流れるふたりだけの時間を楽しみたい。それが僕の一番の望み。けれど、そんな僕の本音を告げたところで、きみはまた僕に対する負債を抱え込んだ気になってしまうのでしょうね。 「圭？ あの……聞いてる？」 黙り込んでしまった僕を、気を悪くしたとでも思ったのか、おずおずと顔を覗き込んでくる。もう何年も伴侶として暮らしているというのに、いつまでも初々しい可愛らしさを失わない。愛情の上に胡坐を掻くような真似など、きみには思いも寄らないことなんでしょうね。ああ悠季、そんなきみが堪らなく好きですよ。 「何をお願いしようかと考えていたんですが……」 笑って見せると、悠季は目に見えて表情を明るくし、御伽噺の先を強請る子供のように身を乗り出してきた。 「今日一日、きみと片時も離れずに過ごしたいです」 熱く潤んだままの蕾に誘いの指を伸ばしながら、低く潜めた声で囁く。悠季は一瞬キョトンとした後、僕の期待通り、劇的に頬を染めた。 「け、圭っ！？」 「一日かけて欲しいものを考えさせてください、という意味ですが。ずっときみの傍にいれば、思いついた時にすぐお願いできるでしょう？ ……おや、どうしました？ 悠季、顔が赤いです」 「きみって……意地悪だっ」 恨めしそうに僕を睨んだ悠季を抱き伏せて、まずは機嫌を取り結ぶ為の甘いキスを。それから再びの熱い時間へと誘うプレリュードのキスを柔らかな唇に贈った。 翌朝はふたりして思ったよりも早く目が覚めた。鰻登りに気温を上げる真夏の太陽の所為ではなく、おそらくは高揚している気持ちの所為。ベッドの中でおはようのキスを交わした後、悠季はすかさず僕に提案してきた。 「ねえ、どこかへ出かけようか？ 街中をブラブラしてみれば、目に付く物があるんじゃない？」 「きみがそうしたければ喜んでお伴しますが、僕としてはごく平凡な一日をきみとのんびり過ごしたいですね」 「誕生日なのに？ それじゃ何でもない日みたいじゃないか」 「今の僕たちの状況を思えば、日常生活こそが非日常ですよ」 「……確かに、ね」 相変わらずのすれ違いだらけの日々には―――それが音楽家同士のカップルとしては当然の在り様だとしても―――悠季も思うところがあるのだろう。苦笑して僕の望みを受け入れてくれた。 台所に並んで立ち、一緒に朝食を作った。それ自体珍しいことではないが、休日には時間に追われることの無い日ならではの、ままごと遊びめいた楽しさがある。タイミング良く調味料を手渡したり、料理の出来上がりに合わせて皿を差し出したり。チラリと見交わす瞳に連係プレイを讃え合う色を見て取れば、楽しさは二倍にも三倍にも膨らむ。家事には全く疎かった僕が料理を覚えた時に思ったのは、これで多少なりとも悠季の負担を減らし、彼に心配をかけなくて済むという安堵だったが、こうした阿吽の呼吸を実感できることは余得と言うべき予想外の悦びだった。 他人が聞いたら呆れるに違いない、至極ささやかな悦び。 同様のものは日常生活の中に無数に散りばめられていて、例えば掃除機を操る悠季の横で掛け易いように椅子やテーブルを動かしたり、洗い上がったシーツの皺伸ばしに手を貸したり。些細な、子供の手伝いレベルの作業を、僕は見つけ出す過程から楽しみ、嬉々として悠季に纏わりついた。 夕食の材料を買いに出た道すがら、悠季はふとしたことで思い出した子供の頃の夏の思い出を語ってくれた。その楽しげな横顔を見守るうちに僕が思い出したのは、僕らの始まりの夏。こうして悠季と肩を並べて歩く、ただそれだけのことさえ得難い僥倖だった、あの片恋の日々。フジミの皆はいとも容易く手に入れているのに、僕にだけは与えられなかった悠季の微笑み、温かな言葉。悠季が向ける親愛の情の証であるそれらが、あの頃の僕は欲しくて欲しくて堪らなかった。自業自得だと頭では理解していても、感情は頑是無い子供のように無いもの強請りを繰り返した。目を凝らし、耳を欹て、僕はいつも全身で悠季を追い求めていた。それこそ、太陽に恋焦がれるひまわりの如くに。 午後のひと時を、悠季のヴァイオリンを聴いたり合奏を楽しんだりして過ごしながら、あの頃の僕が渇望していたものを手にしている今の自分を思った。ひと休みしようと僕が淹れたお茶を美味しそうに飲む横顔を、ソファに並んで寛ぐうちに転寝を始めた安らかな寝顔を。そんな悠季を、傍らで眺めていられる幸福を噛みしめた。 満たされて、幸福で―――それなのに、泣きたくなるほどの切なさが込み上げてくる。 悠季に出逢うまで、僕は自分の人生にこんな至福の時間が与えられるなどとは思えずにいた。望めもしないと諦めて―――けれどその一方では、だからこその強さ激しさで求めていたに違いない。緩やかに流れていく何気ない日常の、愛情だけで紡ぎ上げたような穏やかな時間。共にそれを育んでいく心底愛し合えるパートナーの存在を。 奇跡のように望みは叶い年月を重ねた今でも、時に切なくて愚かしいほど悠季を求めてしまうのは、永く渇望と諦観の狭間で悶え苦しんだ想いの記憶が、未だ消え残っているからかも知れなかった。 とっておきの冷酒で乾杯し、悠季の心尽くしの手料理を楽しんだ後、一緒にシャワーを浴びた。互いの身体を洗い合いながら戯れるようなキスを繰り返しただけで、僕はそれ以上の行為に及ばなかった。「らしくない」と悠季は不審に思ったことだろうが、今夜は情欲を満たす為だけの性急な行為はしたくなかったのだ。至福の一日を与えてくれた悠季への感謝を込めて、彼が望む悦びを差し出すことだけを考え、丁寧に大切に悠季を愛したかった。 陽の光と夏の緑の匂いがする洗い立てのシーツの上で、それよりも遥かに清らかでかぐわしい悠季の身体をそっと抱きしめ、想いを込めて愛した。どこまでも穏やかで優しい睦み合いは、熱い嵐に翻弄されるような情交を凌ぐ幸福感で僕を満たし、僕は分け合った枕の上で静かに目を閉じて、次第に緩やかになっていく悠季の呼吸を肌で感じていた。 「欲しいものは見つかったかい？」 不意にかけられた声に瞼を開くと、悠季は枕の上から上目遣いに僕の顔を見ていた。寝返って彼の方へ向こうとした僕よりも早く身を起こし、今度は僕を上から覗き込んできた。ピローランプの仄かな灯りに浮かび上がる含み笑いの表情は、僕の思惑などとっくにお見通しだったと物語っていて。何と答えたものかと口ごもってしまったことで悠季の推論を裏付けてしまった僕は、観念して取り繕おうと足掻く気持ちを捨てた。 「バレてしまいましたか……」 「そりゃぁね。他ならぬきみのことだもの」 得意気ににっこり笑った悠季を、胸の上にそっと抱き寄せた。 いつの頃からか、悠季には通用しなくなった僕のポーカーフェイス。それを僕は嬉しいとさえ感じていた。 「きみと至福の一日を過ごすうちに、昔のことを思い出してしまいました」 「うん、だろうと思ってた。だって、リクエストした曲といい夕食のメニューといい、きみったらさ」 ―――バレバレだよ、とくすくす笑う悠季の震えが胸から伝わり、吐息が肌を弄っていくのを、僕は面映いようなくすぐったいような気分で噛み締める。 「ねえ悠季……、想いの記憶というものは、思った以上に薄れないものですね。過去の情景を思い出せば、その時の感情までが共に甦る。きみの音に出会った時の感動や、生涯を誓い合った日の感激や、きみを懸命に追いかけていた頃の……気も狂わんばかりだった懊悩や……」 「片思いの気分まで思い出して、それで寂しがり屋で欲しがり屋のきみが顔を出したってわけ？」 悪戯っぽい笑みを浮かべてはいても、悠季の口調には皮肉も揶揄も感じられない。僕は素直に頷いた。 「ええ。心はこの上も無く寄り添っていると判っているのですが、ね」 「満足に顔も見れなかったり……この頃は確かにふたりの生活を楽しむって感じじゃなかったものね」 「だから今日のように幸運な日には、これまでのマイナス分を埋めた上に貯金もしておきたくなる」 「あはっ、それってなんだか寝溜めとか食べ溜めってレベルみたいだ。まあ、きみの場合はさ、スタートからして多分、その……マイナスだったってことなんだろうから、埋めるのは簡単じゃないのかも知れないね」 悠季は、それが然も自分の責任であるかのように気まずそうに目を伏せ、それから僕の顔をそっと窺い見る。微かに強張った頬を宥めるように撫でながら、僕は微笑みかけた。 「きみが僕の手を取ってくれた時点で、とっくにお釣りが出ていますよ。きみが与えてくれたものは本当に計り知れない。こうして誕生日を祝ってもらうことも……きみに出逢って初めて、僕は自分の誕生日も意義のあるものだと思えるようになりましたし、嬉しいと思えるようになったのですから」 「電話でおめでとうを言っただけ、って年もあったけどね」 「それでも、です。大切に思ってくれていることに、変わりはない」 きみの存在に僕がどれほど感謝していることか……！ それが伝わればいいと思いながら、悠季の背中をゆったりと撫で下ろし、撫で上げる。悠季は枕代わりの僕の胸に頬を押し当てたまま静かにそれを受け止めていたが、ふと顔を上げた。真っ直ぐに僕と目線を合わせられる位置までずり上がってくると、ほろっと微笑んだ。 「あのさ、今気が付いて、それで…ひとつ思いついた」 「何をです？」 「僕が祝ってあげられなかった、きみの誕生日。その分は絶対マイナスになってるよな、って思って……」 そんな年があっただろうか？と首を傾げた僕に、面映そうに微笑んだ悠季が言ったのは、僕らが出逢った夏のこと。 「もう知り合ってたのに…僕はきみの誕生日も知らなくって……。だから、これはあの日のきみへのプレゼントってことで……なんか、自意識過剰だし、自惚れてるみたいだけど、さ……」 今もきみの中に居る、寂しがり屋で欲しがり屋の、あの日のきみへ――― 悠季は頬を染めながらも真っ直ぐに僕を見てそう言うと、あの頃の僕が何よりも欲しくて堪らなかったプレゼントをくれた。 「好きだよ、圭。誰よりも…愛してる」 ＦＩＮＥ 2007/9/9 １ヶ月遅れなんて・・・！ 愛が足りないよなぁ；； お詫びの気持ちを込めてしっかり甘めにしたから、許してね、圭。 という訳で、今更ですけど、少しでもお楽しみいただければ幸いです＾＾； << ＢＡＣＫ |