その日、僕が大学の帰りにモーツァルトに寄ったのは、幾つかの《ちょうどいい》が重なった結果だった。 今日のレッスンでは喋りすぎて(怒鳴りすぎて?)咽喉はカラカラ気分はグッタリ、真っ直ぐ家に帰ったら座ったが最後、もう一歩も動けなくなりそうな気がしたし、圭は今月の定期公演を終えた後、年末の第九演奏会までの狭間をぬった海外公演に出かけて留守だったし、ひとり分の夕飯を作るのも面倒だから、どこかで食べて帰っちゃおうか、なんてことも考えたし。で、夕飯だったら駅前のふじみが定番だけど、と思ったところで、最近モーツァルトに行ってないことやニコちゃんともご無沙汰なのを思い出した。 師走の例に漏れず忙しいらしいニコちゃんは、近頃フジミにも殆ど顔を見せていない。僕もそれなりに忙しくて休んだ日もあれば練習帰りのお疲れさんコーヒーもパスしちゃってたもので、かれこれ三週間近くすれ違っている状態だ。ふじみで食事をして食後のコーヒーをモーツァルトで、とも考えた。でも、それより、ニコちゃんの顔を見ながら美味いコーヒーを片手にゆっくり寛ぎたい気分の方が勝った。 「久しぶりにホットドッグの晩飯もいいよな」 うるさいぐらいのボリュームでクリスマスソングが流れる商店街を、僕は家路を辿る人の流れに乗って歩き出した。 僕らの愛するたまり場の入り口には、籐で編んだ輪っかに木の実やドライフラワーをあしらったクリスマスリースが飾られていた。渋い色合いが、年月にすすけていい味を出しているドアによく似合っている。そっと押すと、チリンチリンと控えめなベルの音と共にコーヒーのいい香りや暖かい空気や心地よい音楽が流れ出してきて。僕はなんだか懐かしいような気持ちでそれをすう、と吸い込み、カウンターに目を向けたんだけれど。「いらっしゃいませ」の声は別の方向から聞こえてきた。 店の一隅にクリスマスツリーが置かれていて―――その陰から顔を出したニコちゃんは、僕を見ると普段のニコニコ顔を破顔って感じに笑ませて歩み寄ってきた。 「守村ちゃん!」 「お久しぶりです。ご無沙汰しました」 「やぁやぁ、いらっしゃい、いらっしゃい! 元気だった? ごめんねぇ、この頃練習に行けなくってさ」 欠席続きがよほど気になっていたのか、カウンターに戻って手を洗ったりお冷やを用意したりと慌しく立ち働きながらも、さも申し訳なさそうな顔で言う。 「いえ、僕の方こそ練習の帰りにも寄れなくってすみません」 そうお詫びをしてからいつものカウンター席に座った。 軽食のメニューはパン類が少しあるだけというこの店は、ちょうど夕食時の今頃は意外に空いている。ふたり居たお客さんは、僕と入れ替わるみたいに相次いで帰って行ったので、店内は僕とニコちゃんのふたりだけになっていた。 いつものコーヒーに併せてホットドッグを注文すると、ニコちゃんは「おや?」という顔をした。 「晩ごはんまでの間つなぎ?」 「いえ、晩飯です。今日はなんだか作るのが面倒になっちゃって」 「ああ、桐ノ院くんは海外だったっけ?」 「ええ、明後日には帰ってきますけど」 「大変だねぇ。頑張ってるよねぇ。守村ちゃんもさ、ふたりとも偉いよ」 「あは、いえ、僕はそんな……」 「いやいや、二足のわらじじゃ大変だろうなぁって、いつも思ってるよ。最近、大学の方はどうなの?」 「相変わらず力不足を痛感させられてます。言いたいことが上手く伝わらないっていうか、気持ちが通じないっていうか。歯がゆくって、ついイライラして怒鳴っちゃったりして……今日なんか咽喉が痛いですよ」 「おやおや」 「人を教えるって、なんていうか、すごくパワーが要りますよね。僕もずっと師匠にこんな思いをさせてきたのかなって思ったら、今更のように申し訳なくなります」 「そういうもんなんだと思うよ。その立場になってみないと解らないっていうかさ。でもそうやって師匠から弟子へ、みんな受け継いでいくんだよねぇ」 「ええ。以前、ロスマッティ先生にも言われました。受けたものは後輩へ、弟子へ、伝えることで返していくんだよ、って」 ニコちゃんは目を細めながら、うん、うん、と頷いた。 「親子の関係もね、子育てをしながら子供に育てられて、少しずつ一人前の親にしてもらうようなもんでさ。だから今、歯がゆい思いをしてる守村ちゃんも、お弟子さんたちから先生として磨きを掛けられてるってことなんだろうね」 ―――今に素晴らしい名教師になるよ。名ヴァイオリニストにもね。 僕が思わず赤面してしまうようなことを言って、ニコちゃんは笑った。 「はい、お待ちどうさま。こっちはサービスね」 頼んだホットドッグには、ゆで卵ののったサラダがついてきた。「晩飯だ」と言ったからなのだろうその心づくしを、僕はありがたくいただいた。パリッとした歯ごたえで噛みしめるとジューシーなウインナーを挟んだホットドッグも、久しぶりで美味かった。 「これ、すごく懐かしいです」 「はは、前はよく食べてたよねぇ」 まだ圭と出会ったばかりの、火事で焼けちゃったアパートに住んで高校の臨採講師をしていた頃、時間がなくて晩飯抜きでフジミに行った帰りに、これを晩飯代わりにしたものだった。サンドイッチよりも安くてトーストよりも満足感があって、貧乏だった僕にはありがたかった。 あの頃の僕には、今の僕の姿なんて、きっと想像もつかないだろう。 夢のまた夢、雲を掴むような話だと思っていたプロのヴァイオリニストを目指して、躓いたり迷ったり後戻りしたりしながらも、僕はそれなりに歩みを進めて来れたんだなぁ。 そんな風に改めて思えたことは、なんだか疲れちゃってた僕に新たなエネルギーを与えてくれた気がした。あの頃と変わらない味のホットドッグを頬張りながら、あの頃と変わらない温もりで僕を包んでくれるこの場所を―――俯いて生きていたあの頃の僕が、今もまだすぐ隣に座っていそうな店内を―――僕はゆっくりと見回して、それに気づいた。 「あれ? 石田さん、あのツリーって……」 枝ぶりといい、大きな焼き物の鉢といい、たぶん本物の樅の木だ。以前は確かビニールの作り物だったはずだけど。 「うん。前のが随分古びてたから新調したんだけど、やっぱり本物の木が欲しくなってね」 僕はちょうど食べ終えた皿に「ごちそうさまでした」と手を合わせ、コーヒーをひと口飲んでから立ち上がった。 近づくにつれて、樅の木の香気がふわりと漂ってきた。細いながらもしっかりと真っ直ぐな幹。濃い緑色の細い葉をびっしりと纏った枝は、良く茂って枝ぶりも良く、てっぺんは天を向いてすんなりと伸びている。高さは僕の身長と同じぐらいだから樅の木としては小さいものなんだろうけど、クリスマスツリーにはもってこいの、姿のいい木だ。枝先をチョンと指で突っつくと、ふわんと揺れて清々しい香りがまた寄せてくる。偽物とは存在感からして違うし、何より雰囲気が断然いい。でも、ボール型のオーナメントが吊られているだけで、飾りつけとしては随分寂しいツリーだ。 「やっぱり本物はいいですねぇ。でも石田さん、これ、飾り付けの途中だったんですか?」 振り返って訊ねた僕に、ニコちゃんは顔を曇らせて頷いた。 「そうなんだよ。バイトの子が急に辞めて僕ひとりになっちゃったもんだから、何もかもが遅れ遅れでさ。やっと今日そこに置いたところ。お客さんが少ない時を見計らって、これから少しずつ飾ろうと思ってね」 あ……ってことは……僕は作業のお邪魔をしちゃったわけか。 「すいません。僕にかまわず続けてください、っていうか、僕にも手伝わせてもらえませんか?」 「え、いいよいいよ! せっかく来てくれたんだから、ゆっくりしてってよ」 「いえ、やらせてください。ツリーの飾り付けなんて子供の頃以来で懐かしいし、ワクワクしますよ」 昔、うちにあったツリーは勿論ビニールの偽物で、僕の背丈よりも低いぐらいの小さなヤツだったけど。それでも姉さんたちとオーナメントを取り合いっこしながらの飾り付けは、雪に閉ざされて思うように遊べない冬場の貴重なお楽しみだった。 「そう? じゃあ頼もうかね」 ブーツやキャンディやスノーマンといった定番の飾りを、足元に積み上げた箱から出しては次々に飾り付けていく。木製のオーナメントはひとつひとつ手でペイントされたものらしく、表情にも微妙な違いがあって、すごく味わいがある。「可愛いなぁ」「懐かしいなぁ」「やっぱりウチにも欲しいなぁ」と僕が呟くたびにニコちゃんは笑顔を返してくれる。いつしか僕の頭の中には弾むようなクリスマスメドレーが繰り返し流れていた。 「さて、これがね、とっておきなんだよ」 箱が最後のひとつになった時、ニコちゃんは意味ありげな顔で僕を見上げてそう言うと、随分もったいぶった手つきで蓋を開けた。 「うわぁ〜〜〜!」 「どう? なかなかいいでしょ?」 「すごい! あ、ヴァイオリンがある! こっちはチェロ? ホルンも、トランペットも! これ、どうしたんですか!?」 箱の中には精巧な造りのミニチュア楽器がびっしりと入っていた。オーケストラが出来そうなぐらいにいろんな種類の楽器が、オーケストラが出来そうなぐらいに、たくさん。 「知り合いがね、たまたまインターネットで見つけて教えてくれたんだよ。珍しい楽器もあるし値段も安いしで、僕も嬉しくなっちゃってね」 そうなんだ。僕も楽器店の片隅でミニチュアの置物を見たことはあるけれど、あれはすごく高かったし、こんなにいろんな種類の楽器はなかった。 「こうして紐でぶら下げたらさ、いかにもウチの店らしいツリーが出来そうだと思ってね」 自前で結びつけたらしい金色の細紐をつまんで、ニコちゃんは小さなコントラバスを持ち上げた。 「ええ! みんなもこれ見たら、すごく喜びますよ! もしかしたら、オケの楽器、全部揃ってるんですか?」 ファゴットとかチューバとか、ミニチュアではお目にかかったことのないものまで揃ってる。フジミの帰りにここへ寄ったとき、自分がやってる楽器があったら、みんな絶対嬉しいはずだ。 「いや、打楽器がなくてねぇ。だから米沢さんたちには申し訳ないんだけど」 これね、と示したのは、いかにも子供のおもちゃを模した小太鼓。スティックの先に木琴のバチみたいな丸い玉がついてて、しかも赤い色。その太鼓を生真面目な顔で叩く米沢さんをつい想像してしまって、笑った。 「じゃあこれで仲間外れの人はいませんね」 「それがさ、タクトもないんだけど……桐ノ院くんが拗ねちゃうかねぇ?」 僕は今度こそ噴き出してしまった。 圭の拗ねた顔がありありと目に浮かんだからでもあるし、実際にニコちゃんが言うような拗ね方をする男だということを知っているからでもある。 「爪楊枝を白く塗って、根元にワインのコルクを削ったヤツでもくっ付けて作りますか? でもタクトって、ツリーのオーナメントにしてはいかにもパッとしませんよねぇ?」 今度はニコちゃんも一緒になって大笑いした。 熱いコーヒーをもう一杯いただいてから、ニコちゃんに暇を告げた。 店を出るとき、ニコちゃんはカウンターの中から走り出てきて、僕の手に小さな紙袋を押し付けた。 「え? 何ですか、これ?」 「手伝ってくれてありがとね。すごく助かったし、楽しかった」 「いや、だって! 僕の方こそご馳走になっちゃったのに……」 「いいからいいから。僕が守村ちゃんにあげたいんだからさ、もらっといてよ。少し早いけどね、クリスマスプレゼント」 「すみません、ありがとうございます」 「気をつけてね。寒いから、風邪ひかないように」 「はい。石田さんも、あまり無理しないでくださいね」 おやすみなさい、と言い交わして夜の中に踏み出した。 夕方に比べると格段に気温は下がってて、キュッと身が竦むような感じがしたけれど、身体の内側はなんとも言えずぽかぽかの気分だった。 頭の中でクリスマスメドレーがまたクルクルと回りだす。口をついて零れ出してくるに任せて、僕は小さく鼻歌しながら家路を辿った。その途中、家に帰るまで待ちきれなくて、もらった袋の口を街燈の下でそっと開いてみたのは、そんな浮かれ気分にそそのかされたからだろうか。でも、中から出てきたものは、僕をもっと浮かれさせた。 「ヴァイオリン……!」 ツリーに飾ったのと同じミニチュアのヴァイオリンだった。薄暗い灯りの下にかざして見ると、飴色のニスが鈍い艶を放っている。手のひらに隠れてしまうほど小さいのに、本物そっくり。ちゃんと回る糸巻きも付いてて弦だって張られてる。 「ふふっ、生意気だぞ〜」 ピチカートとばかりに指先でG線を弾いてやると、テグスの弦はポヨンと惚けた音を立てて僕に抗議した。 FINE 2007/12/7 |
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