(2) 「圭、忘れ物ない? 寒いから暖かくしていかないと……」 コート掛けから取ったコートを手渡してやろうと振り向いたら、圭はポーカーフェイスの目だけで悪戯っぽく笑って僕に背中を向けた。軽く開いた両腕を後ろに伸ばした『着せて』のポーズ。 はいはい、と苦笑しつつお望み通りに着せ掛けてやって、シワを伸ばすように肩甲骨の辺りを撫で、仕上げにポンと肩を叩いた。 「うん、おっけ!」 圭はくるりと振り向くとご満悦の表情で僕を腕の中に抱き込み、行ってきますの挨拶にしては長くて濃厚なキスを仕掛けてきて。 「新婚カップルみたいで恥ずかしいぞ……」 危うく腰砕けになりそうだった照れ隠しに睨んでやると、圭は端正な顔をふわっと綺麗に綻ばせた。 「僕らは永遠の新婚カップルですので」 それから、スコアがいっぱいに詰まった重いカバンを持ち上げ、僕の額にもう一度キスを落として元気に出かけて行った。 「どうやら少しはご機嫌が上向いたみたいだね」 閉まった玄関のドアに向かって嘆息し、誰かに同意してもらいたいような気がして目を向けた光一郎さんは「やれやれ、貴方もご苦労なことですね」と苦笑しているように見えた。 圭に思う存分愚痴を言わせてやろうと思った昨夜は、後から思えば僕ばかりが喋りすぎたような気がして「しまったなぁ」な気分だったんだけど、それなりに効果はあったらしい。 「プロなんだから、いい加減に割り切れよ」と、いつもの僕なら突っぱねるところを「よしよし」と宥めて甘やかしてやったのは、超過密なスケジュールに、ともすれば気持ちまでが弱ってしまいそうなこの時期限定のサービスと、圭に隠し事をしている僕の後ろめたさが重なった結果だ。隠し事と言っても悪い意味じゃなくてサプライズを狙っているんだけど、もし今打ち明けてやったなら、宥めも甘やかしも要らないぐらい圭はいっぺんに元気になること請け合いなので、なおさら意地悪をしているようで後ろめたい。 でも、まあ、それもあと数日のことだ。 ここ数年、僕たちが定番にしているクリスマスの過ごし方は、仕事を終えたら一刻も早く帰って来て一緒にお風呂に入り、その後シャンパンでの乾杯とプレゼント交換をする、というものだ。コンサートがハネてから日付が変わるまでの時間ではその程度が精一杯だし、ささやかだけどクリスマス気分は味わえるし、僕も圭も大切にしている時間だ。 今年は圭の悪戯心で個人宅には立派過ぎるツリーが仲間入りして、クリスマスムードもグッと盛り上がっていたし、(余談だけど、百九十二センチの肩車は笑っちゃうしかないぐらいに怖かった! 圭の逞しさは十分知っているし、「絶対にきみを落としたりはしません!」なんて請合ってはくれたんだけどね) だから、そんな風に楽しんだり大騒ぎしたりして飾り付けたツリーの傍で、いつものように過ごすものだと思い込んでいたんだけれど……。 圭が二十五日に振るクリスマスコンサートが随分遅い開演で、当日のうちに帰宅できないかも知れないと僕が知ったのは今月の初めのことで、僕はプレゼント計画の変更を余儀なくされた。僕たちが大切にし、彼が今年も何とか実現させたいと望んでいる『僕たちのささやかなクリスマス』を、何としても叶えてやりたくなったんだ。 もうクリスマスへのカウントダウンが始まっているような時期だったから最大の難関は場所の問題だったんだけど、仕方なく裏技を使ってどうにか確保し、計画の一部に宅島くんの協力を頼んだ。 あ、そうだ、宅島くんに電話しなきゃ! 圭の今日の出勤先はM響の練習場だから、たぶん別行動だ。時間を見計らって携帯に掛けると、宅島くんはコール三回で電話に出た。 「あ、宅島くん? 守村です。今ちょ―――」 《ああ、親方! ちょうど良かった! 頼みます、なんとかしてくださいよ〜!》 「今、ちょっといい?」と都合を尋ねるつもりが、いきなり泣きつかれてしまった。 「な、なに? どうしたの? 何かあった?」 《あったも何も! 奴さんの機嫌を何とかしてもらわないと、もう毎日ビクビクもんですよ》 「や、その……圭、そんなに酷かったの?」 《そりゃ、八つ当たりで怒鳴り飛ばしたりなんかは流石にやらないですけど、あの鉄仮面をビクともしないムッツリ顔に固めてるんですよ? その顔と四六時中付き合ってたら、こっちもクタクタですって》 「あはは、ごめん、ごめん。迷惑かけたね……って、僕が謝るってのも変だけど」 《いえ、ぜんぜん変じゃないですよ。猛獣使いの親方には調教師としての責任があるっしょ?》 「え? 猛獣って……圭が? それ、生島さんのことだろ?」 《親方のそういう独特のすっ呆け具合、俺は結構好きですけどね。タカネ・イクシマを手懐けただけで、猛獣使いの異名を奉られたと思ってるんですか? 桐ノ院も立派に猛獣で、でも親方の前だと家猫並みに大人しくなるって、ブリリアントの連中だってみんな思ってますよ》 「ええ〜っ、マジかい!?」 《マジもマジ、大マジです》 「嫌だなァ、なぁ〜んか、来年からやり難くなりそうだなァ」 《だからこういう時こそ、妙技を披露してくださいよ》 「いや、まあ、うん、実はさ、昨日ちょっと話して、多少は上向きになったと思うんだけどね」 《ホントですか!?》 「うん、今朝は割と普通に機嫌よく出ていったから。でさ、話は変わるけど、例の件」 《ああ、ブツは無事に受け取ってます》 「あ、届いた? 良かった。手間掛けるけど、手はず通りにお願いします」 《いや、渡すのは手間でも何でもないんで平気ですけど……これ、明日とかにでも渡しちゃダメですかね? 奴さんがコロッと上機嫌になるのは間違いないんでしょ? 万全を期すってことで》 「あー、申し訳ないけど、それは困るなぁ」 《んじゃ、当日の開演前はどうですか?》 「まあ、当日なら。宅島くんがどうしてもそうしたいってことなら止めないけどさ、ただその場合、僕が思うに……」 《思うに……なんですか?》 「大バッハの厳かな調べがギャロップのリズムを刻んじゃうとかァ……全曲テンポオーバーの挙句にコンサートが三割方早く終わっちゃうとかァ……ホールが割れそうなほどの拍手喝采ブラボーの嵐でもアンコールは無しとかァ……楽屋を訪ねてくださった大切なお客さまを」 《解ったっ! 解りましたからっ!! もうっ、そんな脅し方するなんて、親方タチ悪いですよ!?》 「あは、ごめん。脅すつもりじゃなかったんだけど」 《ヤツの場合、洒落になりませんって》 「だよね」 ギャロップやテンポオーバーは誇張だけど、後のふたつは、圭ならホントにやりかねない。 《終演後、楽屋見舞いの客が退けたところで手渡して、すぐに中を確認させればいいんですね?》 「うん、お世話をかけます。今度何かお礼するね」 《そんな心配は無用ですから、是非今後とも調教の方をよろしく》 「あはは、じゃあ躾を間違わないように努力しますってことで。それじゃ」 電話を切って、ふぅ、とため息を吐いた。 ブリリアントのみんなの見解とか、僕の猛獣使いって異名は圭も含めてのことだなんてちょっと驚きだったけど(だって、みんなは圭のことをキングって呼んでたからさ)圭に対する僕の影響力は、傍から見ても確かに無視できないものがあるんだろう。僕自身もそう納得してしまうところが自意識過剰かな? 今回のクリスマスプレゼントもいわばその類のもので、圭が靴下の中に入れたサンタクロースへの手紙を盗み見はしたけれど、あれは参考にしたというよりも、僕が既に考えているものと大きく食い違っていないかを確認するためだった。 さて、それは兎も角、これで準備万端、あとは当日を待つばかり、だ。 クリスマスの朝、僕らは少し朝寝坊して遅い朝食を一緒にとった。 フミ姉が毎年送ってくれる自家製の餅が、今年は早く搗いたらしくちょうど昨日届いたので、それを朝食代わりにして。 ガス台の上に焼き網を乗せて餅を焼いている僕の後ろで、圭が不思議そうに言った。 「随分早いですね。正月用ではないのですか?」 「あ、うん、そうだけど、ちょうど昨日着いたからね、味見だよ」 そう惚けてやりながら、僕は込み上げてくる笑いを堪えるのに必死だった。だから餅から目が離せないふりで、ずっと背中を向けていたけれど。僕の肩は震えていたかも知れない。 焼けた餅を、圭は醤油をつけた後バターの欠片を乗せて海苔で巻き、ぺろりと五個もたいらげた。 僕のヤキモチは申告どおり好物らしい、と僕はまた笑いを堪えるのに一苦労した。 「お互い、いい演奏を」と言い交わして出がけのキスをして、昼過ぎに一緒に家を出た。 よく晴れた、十二月にしては暖かい日で、コートも要らないんじゃないかと思えるぐらいだ。 「いいクリスマスだね」 空を見上げながら言ったら、圭は複雑な顔をして。それから僕の目を見てきっぱりと言った。 「なんとしても今日中に帰ってきますよ」 「慌てて事故にでも遭うぐらいなら、遅れた方がマシだよ。だからしっかりきみの仕事をして、気をつけて帰ってくること!」 「ええ、わかってます」 真面目な顔を取り繕って尤もらしいことを言いながら、僕は心の中で「嘘をついてごめんね」と謝っていた。 でも、絶対嬉しい方にひっくり返る嘘だから。 富士見駅前で圭と別れた。 圭はここから電車で都内の某ホールへ、僕は駅前のバス停からバスに乗って音壷に行く。 今夜の仕事は音壷でのカルテットの演奏で、クリスマス向けの小曲を十曲ばかり演る。飯田さんと意気投合して始めたカルテットは、メンバーが増えたり入れ替わったりしながらもまだ活動を続けている。ただし、今日は家族とクリスマスを過ごすために飯田さんはお休みで、他のメンバーは僕の受け持ちだった学生たち、今ではもう卒業生と呼ぶべき連中だ。 古いバーの片隅で、お酒と会話を楽しんでいるお客に向けての演奏は、一見コンサートと言うよりもBGMを提供するライブのような印象だけれど、客の殆どが同業者、マスターはこの道の大御所という絶対に侮れない環境だ。尤も、どんなお客が相手だろうと、どんな場所で演ろうと、気を抜いていいステージなんてないけどね。 心をこめていい演奏をしよう。 圭もきっとホール中のお客をうっとりさせるような音楽を奏でるだろうから、その彼に負けないように。 そして――― 今日の仕事が終わったら、僕はその足で帝国ホテルに行く。そこで僕たちのささやかなクリスマスを過ごすために。 都内のホールから富士見町の自宅まではどう頑張っても一時間以上かかるけど、帝国ホテルまでならタクシーで十分程度。それなら圭も絶対今日中に僕の元へ帰って来れるからね。 不自然に膨らんだドレスバッグの中には、燕尾服一式の他にふたり分の下着と靴下の替え、それから、圭がクリスマス会でもらったあの大きな靴下が入っている。 中に入れるかどうか―――実は、家でこっそり試してみたんだけど、流石に無理だった。それに、両足を突っ込んじゃったら歩けないしね。 バスの揺れに身を任せながら、目を瞑って思い浮かべてみる。 宅島くんに僕からの招待状を渡された圭は、汗だくの燕尾服のままでタクシーに飛び乗るのだろう。 ホテルに着いたら、大股の速足でロビーを横切って、エレベーターに飛び乗って。 ルームサービスでシャンパンを取り寄せ、風呂の用意をして僕が待っているいつものスイートルームにたどり着き…… 大きな靴下を帽子のように被ってドアを開けた僕を見たら、圭はどうするかな? きっと大笑いするに違いない、と思うと、僕はまた笑いの発作に見舞われて止まらなくなった。 「こんな調子じゃ、僕のバッハの方がギャロップになっちゃうぞ〜〜」 自分に言い聞かせて気を引き締めながら、僕はなんとも幸せな気分だった。
FINE 2007/12/24 |
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