リリリリ、と目覚ましのアラームが鳴る。アンダンテの二拍分、きっかり四回鳴り終わったところでボタンを叩いて黙らせる。それが僕の一日の始まりだ。寝起きの悪い悠季は、この程度の音では目覚めない。モゾモゾと僕の腕の中で身じろぐだけだ。そのあどけない寝顔を暫くは眺めて過ごし、それから優しいキスや緩やかな愛撫で徐々に覚醒に導いてやる。それが僕の朝一番の、実に楽しみでかけがえの無い仕事であり、悠季もそうして起こされる過程を確かに楽しんでいたはずなのだ。 あの日までは。 リリリリリリリリ…… 耳障りなアラームは、かれこれ三十秒は鳴り続けている。計算上は六十回鳴ったことになるが、数えるのも馬鹿らしくて途中で止めてしまった。これで目が覚めないというのが僕には不思議でならないのだが、悠季は煩そうに呻り声を漏らしただけで布団に潜り込み、僕の腹の辺りで丸くなっている。 やれやれ。 これはこれで、なかなかに幸福な体勢ではあるのですがね。 以前のように、きみを起こす楽しい仕事を始めてしまいましょうか。 しかしそれも、この煩いアラームを止めてからの話だが、今の僕にはそれが出来ないのだった。 「悠季、悠季? 鳴っていますよ」 肩を揺すぶって声をかけると、悠季はようやく布団から顔を出した。焦点の合わない目を眩しさに瞬きながら僕を見上げる。 「ぅ……ん、……圭……止めて、よ」 「時計は君の枕元です。そんなに眠いなら、今日は休みにしてはいかがです?」 舌足らずな口調に苦笑しつつ、悠季が『悪魔の囁き』と呼ぶ誘いをかけてやると、途端にガバッと飛び起きて手探りで目覚ましを止めた。 「ダメ! 休まない!」 「ですが、今日は雪でも降りそうな空模様ですよ?」 カーテンの隙間から見える空はどんよりと曇っている。悠季はこちらも手探りで見つけた眼鏡をかけながら空を見上げた。 「ああ、ほんとだ。でも降ったとしてもパラつく程度だね。本格的な雪雲じゃないから」 雪が降る時には匂いで判るのだ、と雪国育ちの彼は言う。東京では積もるほどに降るのは年に一、二度がせいぜいだが、雪の季節の故郷にはもう何年も帰っていないので、せめてこちらで、と案外楽しみにしているのかも知れない。 「じゃ、行ってくるね」 僕の額にキスを落とすと、悠季は軽い身のこなしでベッドを出て行った。 僕らの朝が様変わりしたのは、僕と悠季がひとりの音楽家同士として予想外の大激突をした、あの初共演以降のことである。合わせ練習の終盤で脳貧血を起こして倒れ、最後の詰めを僕に任せるしかなかったことは、僕に言わせれば単なる根の詰め過ぎなのだが、悠季にとっては我が身の脆弱さを情けなく思うばかりの悔やんでも悔やみきれない痛恨事であったらしい。くだんのコンサートが無事成功を収め、慌しかった日々が日常の落ち着きを取り戻したところで、悠季はジョギングの習慣を復活させた。それまでも時間の許す限りは走っていたようだが、この許す限りというのが曲者で。忙しさで、あるいは暑さ寒さで、ついついさぼりがちだったツケがあのような形で返ってきたと心底反省し、毎日必ず走ると心に誓ったのだそうだ。 僕は彼の気持ちを汲んで協力することにした。目覚しのアラームも、悠季をキスと愛撫で起こす仕事も、毎朝一時間繰り上げたのだ。そうしたところが、一週間も経たないうちに当の悠季からクレームがついた。数日前に続いて二度目の、つい仕事熱心になり過ぎたあまりメイクラブになだれ込んでしまった朝のことだった。 「圭、あのさ、これって……困るんだよね」 乱れたシーツに半分埋めたままの顔は、なんとも恨めしそうである。だがその割に、言葉に非難の色が含まれていないのは、悠季自身もこのひと時を愉しんでしまった後ろめたさがあるからだろう。何しろ今の僕らは、月のうち半分は離れて暮らしているのである。『足りない』と思う気持ちも『共に居られる時ぐらいは』と思う気持ちも、僕だけのものではない筈だ。 「ジョギングには三十分もあれば十分でしょう? 今からでも時間はありますし、それに、起き上がれないほど無理はさせていないでしょう?」 努めて優しく囁けば、悠季は余韻に染まった頬をぷいと可愛らしく背けて言った。 「こんなことしちゃった後で走る気になんてなれないよ」 「では、時間までもう一度」 「あ、ちょ、ちょっと! 圭っ!?」 背中から抱きしめて、再びの甘い時間へ誘ったのは言うまでもない。 その夜、仕事から帰ってみれば、寝室の家具の配置が少々変わっていた。僕の枕元に寄せて置いてあったサイドテーブルが悠季の側に移動していたのである。そのテーブルの上が定位置だった目覚まし時計も然り。 「明日から自分で起きることにするから。僕が止める前に目覚まし止めちゃダメだよ!?」 悠季はむきになっている子供の如く、真剣に息巻く調子で言った。 「きみの腕枕を務めながらでは、いくら僕の腕が長くても、そこまでは届きませんよ」 毎朝の幸福な仕事を取り上げられて残念なことこの上ないが、悠季が演奏家としての自分をより高める為に努力しているのである。僕が異議を申し立てられることではない。 「勝手に起きて出て行くから、きみは起きなくていいよ。まあ、アラームで少しは目が覚めちゃうかも知れないけど、一時間あればもう一眠りできるだろ?」 そうして悠季は、毎朝のジョギングを続けながら幾つもの季節を過ごしてきた。僕が知る限り殆ど毎日、休んだのは雨の日と台風が直撃した朝と風邪で熱を出して寝込んでいた時ぐらいのものだ。夏休みの間は僕も一緒に走ったりしたものだが、本当によく続くと、彼の根気には頭が下がる思いだった。 だが、どうやら冬という季節は、悠季にとって鬼門であるらしい。 寝起きがすこぶる悪い彼には、まだ薄暗いうちに起きなければならないことが、想像以上に堪えているようだ。そこへ寒さが追い討ちをかける。冷え込みの厳しい朝には、温かい布団に包まって時間の許す限りまどろんでいたい、と誰しも思うものだろう。 「今朝も相当に冷え込んでいるようですね」 僕は起き上がってガウンを羽織ると、悠季を追って階下へと降りた。 火の気の無い一階は予想に違わず底冷えがして、僕は思わずガウンの襟を掻き合わせた。 悠季は玄関の板張りに腰を下ろして愛用のシューズの紐を結んでいた。防水防風加工が施されたヤッケのような生地の上下に身を包み、汗取りとマフラー兼用のタオルを首に巻き、軍手をはめた完全防備の出で立ちだ。ギシギシと階段の鳴る音で僕に気づいた悠季は、振り返ると眉を顰めて言った。 「なんだ、もう一眠りすればいいのに」 あれだけアラームが鳴り続いた後で、もう一度眠れる人間が居たらお目にかかりたいものだが、もちろん悠季にそれを言うつもりはない。僕はしゃがんで悠季の肩に両手をかけると耳元で言った。 「きみを見送りたいと思いまして」 「引き止めたいの間違いじゃないの?」 横目で睨んできながらのひと言に、にっこりと笑い返す。 「お望みでしたら、そのように」 「あのさ、僕は意志薄弱な人間なんだから、誘惑しないでくれないかな?」 「きみの意思が薄弱なら、世の中の人間はみな豆腐のような根性ですね」 「ぶっ! どこで覚えたのさ、そんな言い回し」 悠季は一頻りクスクスと笑ったあと、ふぅ、と笑い止めて言った。 「実を言うとさ、寒さも手伝ってか、この頃どうも億劫になっちゃってるんだよね」 「こんなに続いているのに、ですか?」 「うん、ガス欠してきたっていうか、継続は力なりってホントだなって思う」 「ローマはもっと寒かったですが、あの頃は平気だったのでしょう?」 「だって、あの時は先生がご一緒だったから、僕だけ休むなんて考えもしなかったよ。それに、ロッシがいたしね。犬って散歩が大好きだろ? 毎朝待ち構えてて、それはそれは嬉しそうでさ。……ああ、犬が一緒なら苦にならない気がするなぁ」 子供の頃、実家で犬を飼っていたという悠季は、道で近所の飼い犬に会うと、必ずと言っていいほど撫でたり話しかけたりしている。今でも出来ることなら飼いたいのだろうが、留守がちの僕らでは満足に世話をしてやれない。 「では、僕が犬の代わりを務めましょう」 「あはっ、随分でっかい犬だねぇ! でもさ、きみは元々体力もあるし、僕よりずっと忙しいんだから、なるべく身体を休めることを考えた方がいいだろ…って、あ、でも、僕の所為で毎朝一時間も早く起こしちゃってるか……」 ごめんね、と呟いた頬に、そっと口づけた。 「もう一度ベッドに戻ればいいことです。だから、僕を起こさない為に寝室を別にするなどとは間違っても言わないで下さいね?」 「うん……言わない」 振り返った悠季は僕の唇にちゅっとキスをして微笑むと、気合を入れるように伸びをしてから出かけて行った。 もう一度寝直す気にはなれなかったので、僕は朝食を作って悠季の帰りを待つことにした。味噌汁の実を刻みながら思いついたのは、近頃悠季が億劫になっている原因は、僕があわよくば彼を引き止めようとする理由と同じで、後ろ髪を引かれているのではないか、ということだった。 年々すれ違い生活が酷くなる中で、ひとつベッドで抱き合って眠れる日は貴重なものになりつつある。殊に冬場は互いの温もりが身に沁みる分、共に過ごす時間の大切さや悦びを、より実感させられる思いだ。限られた時間の中で優先順位がグッと上がってしまうのも当然だと思えるのだった。 「冗談半分にしても、引き止めるような真似をしたのは拙かったですね」 僕は反省と謝罪の気持ちを込めて、やはり明日から犬の代わりを務めようと思ったのだった。 朝食を食べながら眺めていたテレビでは、この冬一番の寒気団がシベリアから南下していると報じており、視界も奪われそうな吹雪に見舞われている新潟市内の様子を映し出していた。 「うわっ、市内でこんなじゃ、僕んちの辺りはもっとだよ〜」 箸を止めて映像に見入っている悠季は、雪国の暮らしの大変さを知ってなお、懐かしがっているように思えた。東京にも雪の予報が出ているのを見て「積もるかな?」と目を輝かせたのが、いい証拠だ。 その日、午後から降ったり止んだりを繰り返していた雪は夕方になっても積もる気配を見せず、僕は仕事の帰りに自分用のジョギングウェアを買い込んで帰宅し、明日から犬代わりを務めたいと悠季に伝えた。悠季は笑って快諾してくれたが、申し訳なさそうな顔で言った。 「せっかくだけどさ、明日の朝はきっと積もってるから休みだよ」 「ですが、今帰って来る時も、道路は殆ど乾いていましたよ?」 「うん、でも多分、積もると思うな」 そうして僕らは、ジョギングは休む時の起床時間に目覚ましを合わせ、抱き合って眠った。僕がジョギングをするのはあくまでも悠季と一緒に過ごすことが目的であり、彼に異存がなければ、ベッドの中で悠季を腕に抱きつつまどろんでいる方がよほど僕好みだったからである。 翌朝、僕は悠季の歓声で目を覚ました。 「うわ〜〜っ、積もってる! 圭、圭? 起きて! 真っ白だよ!」 目を開けると、やたらに眩しかった。 雪に反射したものと思しき光が窓から差し込んで、部屋の天井までも白く輝かせているのだ。ようやくはっきりした視界で時計を見てみれば、まだ目覚ましは鳴っていない時間。それも、ジョギングに行く時よりも早い時刻だ。僕は堪えきれずに笑った。 「圭? 何笑ってるのさ」 顔を顰めて訊ねてきた悠季は、さっさとウェアに着替え始めている。 「いえ、別に、何も。 悠季、ジョギングは休むんでしょう?」 「うん、庭に出てみるだけ。窓から見ただけでもすっごく綺麗なんだよ。どうせなら何日か後に降れば、ムード満点のホワイト・クリスマスだったのにね」 「このうえムードなど盛り上がらなくていいですよ」 部屋にツリーは飾ったものの、今年も僕らはクリスマスとは無縁だ。 悠季は肩をすくめて僕の言葉をかわすと「先に行ってるからね!」とはしゃいだ声を上げて出て行った。 「やれやれ、僕も雪遊びに参加すると、決め込んでいるわけですね」 ベッドを出て、とりあえず窓から外を覗いてみた。 積雪量は恐らく十センチにも満たないだろうが、立派に銀世界が広がっている。 足跡ひとつない真っ白な道の清清しさ。屋根や塀の上や木の枝に丸くこんもりと積もった雪は、確かに綿帽子だ。枯れ芝が薄茶色に覆っていた庭も美しく雪化粧され、その中を悠季は新雪の踏み心地を確かめるように歩いていた。低木の植え込みでは、枝を摘んで撓らせては積もった雪を弾いて遊び、時折しゃがみこんでは手に掬った雪をギュッと握り固め、嬉しそうに宙に放る。その姿は、まるきり無邪気な子供そのものだった。 僕はふと、ポピュラーな童謡の一節を思い出して口ずさんだ。 「〜♪ゆーきやこんこ、あーられやこんこ…………確か、犬は喜び庭駆け回り、でしたね。 これではどちらが犬だか判らない」 「けーい! 早くおいでよー!」 待ちきれない様子で、悠季が手を振って呼んでいる。 「さて、では僕も犬になりに行きますか」 真新しいウェアに袖を通す。 雪遊びの後は、やはり熱い風呂で温まるのが常道だろう。 僕は風呂のスイッチを入れてから悠季の待つ庭へと向かった。 FINE 2007/12/21 |
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